安達盛長公の静寂な墓。
安達藤九郎盛長の墓の特徴
頼朝公の従者、安達盛長のお墓は質素で静かな場所にあります。
昔は源範頼の供養塔付近に位置していましたが、移設された経緯があります。
盛長が頼朝を支えた歴史的背景を感じることができるスポットです。
頼朝公の従者として仕えた方のお墓にしては質素で、また道の横にちょこっとあるのも驚きです静かな良い場所ですが、なぜ当時の方は頼朝公のお近くに葬ってあげなかったのでしょう。
藤九郎さん👍安らかに✨昔は源範頼の墓所(供養搭)近くに在ったという( ・3・)
源頼朝公側近の安達盛長(あだちもりなが)公のお墓。こんな場所にあるんだ…と感じる場所にありました。
道路を整備するために、昔あった場所からここに移動させたらしい。ほんとに小さい墓。
頼朝が落馬し意識が薄れてゆく時に盛長が「鎌倉殿!」と言わず「助殿!」と呼び掛けたシーンが忘れられません。無念だったでしょうね。木立の中にひっそりと小ぶりのお墓がありました。
安達盛長は、頼朝の乳母・比企尼の命を受け、伊豆韮山に流された源頼朝の世話をするために函南町桑原・蓮華寺に住まいを定め旗挙げをするまで身の回りの世話をしました。頼朝の信頼厚く、鎌倉幕府内で重きをなし、知恵袋として影の如く従っていました。頼朝が亡くなった後、鎌倉を去り、修善寺に隠棲し、正治2年(1200年)4月26日66歳で没し、当地に葬られました。
♪︎当初、安達藤九郎の墓は此処から右折して340m程先に在りましたがバイパス工事で移設されています。 2022/03/05
名前 |
安達藤九郎盛長の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.9 |
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源頼朝の側近、秘書官的な役割、北条政子との間を取持ったり千葉常胤を説得したりから十三人の合議制・梶原景時糾弾段々政治の表舞台に関係して来ますが子孫の代に三浦氏を滅ぼし北条氏外戚に、逆に霜月騒動で平頼綱に安達泰盛は討たれたりしますが鎌倉幕府滅亡まで重きをなします。修善寺から坂を登り、バイパスに交差した↓突当りの山際に有り標識あるもやや探します。が、元の場所から移動したもので源範頼墓所から修善寺の略真上の方になりました。1979年の大河ドラマ草燃えるで演じたのは武田鉄矢さん、wikiには元々関東の豪族という訳ではないものの御家人として奥州遠征等で手柄をたて成長していったとか。墓所は愛知県長泉寺にも有り埼玉県鴻巣市放光寺に坐像が有るとか。