豊島氏築城の三原城跡へ。
三原城跡(本郷城)の特徴
三原城跡は三原氏の始祖、三原弾正時勝にゆかりの地です。
大刀洗町役場の北2kmに位置し、アクセスも良好です。
中世の豊島氏によって築城された歴史深い城跡です。
三原氏の始祖は、三原弾正時勝と伝えられています。三原城は、本郷城とも呼ばれ、東西110m南北150mの範囲に内堀外堀をめぐらし、角矢倉、物見櫓を設けた平城でした。鎌倉時代には、護良親王の命を受けて九州探題を攻め、あるいは多々良川の合戦では足利尊氏の軍を迎え撃つなど宮軍につきはたらきました。後年は武家方につき、大原合戦では、小弐方に名を連ねました。1586年には三原紹心が岩屋城で討ち死にし、三原城もおわりをつげます。今は個人の所有地ですので、なかを見ることはできません。
三原城跡は、大刀洗町役場の北2kmほどにある城跡です。本郷城ともよばれ、東西約110m、南北約150mの範囲に外堀・内堀を構え、角矢倉、物見櫓を設けた平城でした。三原氏の始祖は三原弾正時勝と伝えられ、「おしどり物語」の哀話が残っています。鎌倉時代の初期、糸島郡高祖の城主原田種直の子種朝は三原氏を継ぎ、第十三代の当主になりましたが、入城にあたり筑前の筥崎宮の高良新宮を勧請して、城の守護神としました。後年戦火の及ぶことをおそれて、城外に移したのが現在の本郷高良玉垂宮です。鎌倉時代には、護良親王の命を受けて九州探題を攻め、あるいは多々良浜に足利尊氏の軍勢を迎え撃つなど、宮方に力を尽くしていましたが、後年には武家方となり、大原合戦の時は小弐方に名を連ねています。天正14年(1586年)三原紹心が四王寺山岩屋城で討死にしたこともあって、城としての役目は終わることになりました。
南総里見八剣伝によると中世では豊島氏が築城。戦国時代では北条家家臣の太田道灌の曾孫 康資が所領江戸時代には前田家の上屋敷。
| 名前 |
三原城跡(本郷城) |
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| ジャンル |
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| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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今は城跡は個人の敷地内で道路沿いに説明板、城石柱があります。809年三原弾正時勝を祖とし、ここ本郷に居を構えた。その後、高祖山城主原田種直の子種朝が三原家を継いだ。1586年三原紹忍は城主高橋紹運の岩屋城の百貫島砦を50余名で守ったが討死。(福岡県の城より)