震災遺構が語る物悲しさ。
震災遺構 米沢商会の特徴
震災遺構米沢商会は物悲しさが漂う場所です。
市役所や市民会館近くに位置する歴史的な三階建てのビルです。
震災から10年経った今も周囲には何も残っていません。
市役所や市民会館近くにあった米沢商会の三階建てのビル。オーナーの強い意志により、被災したままの姿での保存がされている。周囲が若干かさ上げされているが、建物の根本部分は、昔の高田の地面の高さ。今後もこの場に立ち、津波の高さや震災以前の街並みや人々に思いを馳せることに相応しい場所かもしれない。余談ですが、このビルは、あのS建設が作ったビルらしい。孫請け?した大船渡市の業者の社長が言ってました。何年か前の3月11日にこの場所でお会いしました。陸前高田市内には、S建設の建物が三棟あったらしい。いろいろ条件が厳しかったらしいです。
今もこの建物の周りにはほとんど何もありません。オーナーの強い意地で残された震災遺構。特に何がある訳ではありませんが、津波の恐ろしさを感じることのできる建物です。静かな海なのに、今にもたくさんの声が聴こえて来そうです。何とも言えない空間です。今は、ウクライナの平和を祈り、ウクライナの国旗がかけられていました。
自費で残された震災遺構。周囲の建物が国費で取り壊され、オーナーの強い意志で残された建造物は異彩を放ってます。
(2021年2月1日訪問)震災から10年経ってもこの建物の周りにはほとんど何もありません。更地です。復興にはここまで時間がかかるんですね。震災遺構として残されることが決まった建物です。特に説明の展示等があるわけではありませんが、震災そして津波の恐ろしさを感じることのできる建物です。是非とも訪れていただきたいです。
大勢の命と運命が歪められた、あの出来事からもう10年。BRT路線の陸前高田駅から南に目を向けると、この建物と「生死を分けたあの浸水線」が、あなたの視線のほぼ水平にあるという事実に気付けます。一見すると、復興がまるで進んでない様に見える、駅から見下ろせる周辺一帯。「この位置まで盛り土(土台硬め)をした高台」より上に無い一帯だけが、進まないという印象でした。(道の駅の移設と、公認震災遺構周辺のトイレくらいで、個人や企業は浸水地域に建物を作りたがらない?)海側には巨大な堤防が築かれ、もはや水平線を目にする事はできません。でもそれ位に堅牢な予防をしないと、もう誰も住めない営めない程に、皆様が深く傷ついたことは想像に難くありません。きっと堤防が完成すれば、徐々にその傷も癒やされ、いずれは忘れ去られていくのでしょう。しかしこの建物を見る度に、最上段の煙突(排気口?)があったおかげで生還した2つの命と。眼下の家々が全て波に飲み込まれ浸水し、すぐ側を浮かぶ瓦礫に囲まれながら、あの上で家族の安否を考え続けた焦燥の一夜を。ぜひ当時のヨネザワさんのインタビュー記事や、ご本人がまだお元気で話の聴けるうちに聞きに行って、高台からこの建物を思い出して戴きたい。その高台すら震災後に作られ、当時は水没していた事も含め、。思いを馳せ各々の教訓として戴くことが、この建物の大きな価値と思われます。
2021/05/24(月)に群馬県前橋市から正午過ぎに訪れました。この周辺は未だに更地が多く、水田にはウミネコ·カモメ·ダイサギ·カルガモが群れていましたよ。人があまり立ち入らないので、この水鳥達は楽園だろうと思います。また日を改めて来年も伺います。
9年前の甚大な津波被害は凄い一言!後世に被害の様子を語り部が語っても中々実際問題として理解できかねると思います。テレビで見ましたが米沢氏が「所有ビル」を後世に遺すことは「百聞は一見に如かず」で次の世代の方々もビルを見たら。実感できると思います。
名前 |
震災遺構 米沢商会 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.3 |
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この一軒取り残されて物悲しさが漂います。建物はバス停から見えていました。