日本橋の魚河岸跡で、歴史を感じる旅。
日本橋魚河岸跡の特徴
江戸時代から続く日本橋の魚市場発祥の地である碑が存在します。
地下鉄三越前駅B6出口から近いアクセスの良さが魅力です。
乙姫広場にたたずみ、観光客で賑わう歴史的な場所です。
水運が発達していた時代を想像しました。なんとなく、大阪の天神橋あたりと雰囲気が似てます。あちらも高速がありますが、川の扱いが違うかなー。
「日千両」と呼ばれた日本橋の魚河岸があった場所に石碑があります。全盛期の遊廓吉原、そして歌舞伎小屋のあった堺町・葺屋町と並んで、一日に千両(1憶くらい)のお金が動く場所として有名な場所でした。明治になっても、魚河岸の賑わいは変わらぬままでしたが、関東大震災の被災をきっかけに、東京改造計画のため魚河岸が築地へ移転されました。その時も反対が多く移転完了まで10数年の月日がかかっています。豊洲移転と同じ状況だったようです。とは言え、間口一間・奥行20間の土地に千両もの高値が付いた場所なので、単に市場が移動しただけでなかったと訳で、今の落ち着いた雰囲気からは想像しにくいです。
ここに魚河岸があったんですね。知らなかったです😅こういう史跡があるといい勉強になりますね。
東京メトロ半蔵門線三越前駅B6出口付近の日本橋の袂にある史跡である。江戸時代から関東大震災後築地移転迄の間東京の水産業を支えてきた魚河岸の跡地に昭和29年記念碑として建立されたものの様である。現在の日本橋付近の様子はビルが立ち並び当時の様子を想像する事も難しい。日本橋魚市場発祥の地の記念碑と乙姫の像は日本橋魚河岸から東京中央卸売市場築地を経て豊洲市場へと至る歴史の痕跡を残し、当時の様子を窺い知る事の出来る場所であろう。
現在は、首都高速道路の柱ばかりが目につく、日本橋川の様子ですが一日に千両の取引があるといわれた江戸初期から大正まで日本橋に魚市場がありました。当時、最も活気のある場所の一つだった魚河岸は、大正12年(1923)の関東大震災をきっかけに築地市場へと移転しました。日本橋での300年余りの歴史に幕を下ろしましたが、周辺には今も魚河岸の名残を感じさせる老舗店が見られます。そして現在は、築地市場へと移転した市場も東京都卸売市場へと発展しました。
当時の賑わいを想像しながら、解説を読む。江戸時代から関東大震災までの300年、ここが魚介の一大魚河岸だったとは。ここから築地へ。そして今は豊洲。2021年11月。
今では高速道路の陰になってしまいましたが、在りし日は運河として魚河岸があったようです。
日本橋魚河岸跡。江戸の発展とともに魚市場は繁盛。魚市場は朝千両、芝居小屋は昼千両、吉原遊廓は夜千両と言われた。
嘗て日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いにあった魚河岸。江戸時代から約300年にわたり江戸の食を支えてきたが、大正12(1923)年の関東大震災では壊滅的な被害を受けて築地へ移転した。歴史を伝える魚河岸跡にも拘らず腰掛けるベンチもないのは浮浪者対策?
| 名前 |
日本橋魚河岸跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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魚河岸は、ここ日本橋から築地、そして豊洲に移転しました。記念碑があるのは知っていましたが、今回探して初めて見ることができました。