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| 名前 |
宮田用水水神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
|
徳川家康の命により整備され、400年の歴史があります。天正の大洪水によりこの地域は、おおきな被害を受けた地域です。当時、尾張は豊臣秀次の所領であった為、秀吉は文禄2年(1592年)11月末から12月初旬まで洪水で荒廃した尾張に滞在し自ら振興策の遂行を指導したといわれます。なんといっても、この地は秀吉にとっても、思い入れが強い場所です。これにより翌文禄3年正月には築堤が開始されます。しかし、まもなく、豊臣秀吉が死去秀吉の死没・徳川幕府への移行などもありこの地区の治政は、徳川家康の九男、徳川義直(尾張藩初代藩主)となります。1608年に徳川家康の命によって、木曽川を利用した木曽ヒノキの輸送の確保と大阪の旧豊臣勢からの防衛を目的として、犬山から弥富に至る木曽川左岸に約47kmにわたる連続堤御囲堤(おかこいつつみ)が完成。しかし.....これに伴い、木曽川から濃尾平野に流れていた支流を全て塞き止めることになり、一帯の農地は水源を失うことになってしまいました。そこで、木曽川本流から直接取水することになり、1610年(慶長15年)に葉栗郡大野村(現:一宮市浅井町大野)と般若村(現・江南市般若町)の2箇所に取水用水門が完成。ここから大江用水、新般若用水への導水路が築かれました。これらの用水は尾張藩直営となり、郡奉行(=代官)より地位が高い水奉行という役職を設置すると共に、農民に「井組」と呼ばれる管理組織を作らせて実際に運用に当たらせたといいます。現在の濃尾平野の繁栄は、この水脈の整備が発端となっております。感謝。