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| 名前 |
船増原ぬ村井戸 (フナマスバルヌムラガー) |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
|
ウォーキングで巡る那覇の河川・樋川・井戸・湧水その57 【樋川1丁目】①場所(樋川1―24―9付近)●船増原公園から坂を下って右に曲がる。直ぐ左に細い路地があるので、そこを真っ直ぐ進むとT字路の真ん中に井戸がある。②井戸●近所に住まわれているご婦人に話を伺うことができた。水道が普及する前に使われていた井戸。井戸蓋の上に祠跡のようなものがあるが、拝み等は特に行われていないとの事。●特に名称もないとの事なので、区別しやすいように地名+村ガーで表記する。●この付近は細い路地が沢山あり、古い集落の形が残っている。●近くに個人所有と思われる井戸が複数確認できた。③船増原の由来●この辺りから与儀十字路付近は船増原と呼ばれていた。ガーブ川の船着き場が由来。●『昔』の那覇の水際線は左図の様に、現在の安里川の崇元寺の道向かいが漁場であり、ガーブ川の与儀公園手前にケーシンダーという山原船の船着き場でした。また、国場川の真玉橋あたりまで漁船や山原船が出入りしたといわれ、現在の泉崎から沖合に松や福木が鬱蒼とした浮島がありました。この頃の那覇は奥武山、三重城、御物城、ガーナー森等大小幾つかの島からなる緑豊かな浮島で景観のとても美しいところでした。那覇バスターミナル構内の仲島大石は、その面影を残しています。(参照①)●那覇市北西部はかつて浅い海が広がっており、ガーブ川下流部も船増原(樋川付近)まで入り江となっていたが、1451年に長虹堤と呼ばれる堤防が造られてから陸化が進んだ。下流部は昭和初期に至るまで湿地帯であったことから地元の言葉で湿地を意味する「ガーブー」よりガーブ川と名付けられた。(参照:②)参照①:奥武山公園内案内看板今の那覇は浮島だった…。奥武山、小島から現在へ…参照②:ウィキペディアガーブ川。