河津桜とヒヨドリの楽園。
御幸堤之碑の特徴
河津桜の満開時期には、ヒヨドリとの出会いが楽しめます。
江戸時代の洪水対策として造られた権現堂堤が魅力です。
明治時代に作成されたフランス式彩色地図を見ることができます。
【行幸堤之碑】権現堂堤は、権現堂川の水防のために江戸時代になる前に造られた堤です。しかし、江戸時代を通じて何回もの洪水を経て明治時代になって地元から新しい堤防造成の機運が起こり、明治八年六月に着工し、十月にはここから栗橋町小右衛門にかけて旧日光道中に並行した新権現堂堤が完成したのです(現在は国道四号線がその上を通っています)明治九年六月に、明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られてその労に感じ入り、この仕事に携わった者の名前を石に刻んで残すように言われ、費用の一部が下賜されました。人々は大変恐縮し、是非この堤を行幸堤と呼ばせていただきたいと申し出たところ許可されたということです。明治二十二年の町村制施行によって高須賀村・外国府間村・円藤内村・松石村・千塚村が合併して行幸村となりましたが、その村名もこの行幸提に由来しています。また、この石碑の建っている部分は行幸橋の架け替え工事(平成十二年~十七年)以前はゆるやかな斜面であったため、石碑自体は歩道の近くにあって国道側を向いていましたが、堤が高くなったために上に移し、見やすいように現在の向きにしたものです。
この辺りは江戸時代に洪水の被害が頻繁に生起しており、明治8年に旧日光道中に並行した新権現堂堤が完成しました。明治9年6月に、明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られてその労に感じ入り、この仕事に携わった者の名前を石に刻んで残すように言われ、費用の一部が下賜されたことで行幸堤と呼ばれるようになりました。
「フランス式彩色地図」と呼ばれている明治13年から18年にかけて陸軍参謀本部によつて計画作製された縮尺2万分の1の「日本近代測量の基礎」となった地図があります。この地図は等高線による地形表現に加えて水彩絵の具で市街地や田畑等を巧みに彩色した実用的かつ見た目にも美しい「フランスの香り」漂う地図です。彩色地図には、明治9年6月4日「東北行幸」の際に此の地で御高覧を賜った建設中の「御幸堤」の完成した姿が「権現堂川右岸」に描かれています。又、この地図には「渡良瀬川」を合流した「利根川」が栗橋付近で「権現堂川」と「赤堀川」に分流する様子が描かれていて、川の形状や河幅等から「権現堂川」こそが「利根本流」であった事を如実に示しています。
名前 |
御幸堤之碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.2 |
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河津桜が満開で、ヒヨドリがたくさんいて楽しい😃