毛利方の援軍ゆかりの地。
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永禄12年(1569年)大内輝弘の乱に際し、津和野の吉見正頼の軍勢は毛利方の援軍として宮野口の当地で戦いました。その時、赤木余次郎、伊藤左近らが戦死し、この地蔵尊や石燈籠はその墓だという言い伝えがあるそうです。
名前 |
吉見勢の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
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▼ 宮野温泉を少し岩杖方面に登ったところです。ここの石彫群が、戦国時代末期、1569(永禄12)年の古戦場であると伝えられます(信長入京の翌年)。周防・長門が毛利領となったことに納得しない大内氏の残党が、「オレたちはまだ戦える!」と反乱を起こしたのですね(大内輝弘の乱)。この際、毛利軍への援軍が津和野からかけつけ、ここで戦って討ち死にしたのだとか。▼ 道路右側には地蔵堂・五輪塔・石灯籠などが残っています。また地域住民の話では、この近辺にはあちこちに五輪塔などが埋もれているとのこと。誰か、夏休みの宿題に探検してみない?▼『山口名勝旧蹟図誌』によると「この墓(津和野城主吉見正頼の家臣、伊藤左京亮実信の墓)の外(ほか)に五輪あり。上領余二郎も戦士したれば、それが墓かと土人にたづぬるに、当年の物にはあらずといへり」と記されています。つまり、上記石彫群のうち「五輪塔」は大内輝弘の乱よりも古いもの。ということは。このあたりは山口の玄関口として古くより戦乱が少なくなかったことを推測させますね。深夜にはあんまり近づきたくないなぁー(『山口名勝旧蹟図誌』p.78などを参考に記す)