鯉が見守る坂東報恩寺。
報恩寺の特徴
浄土真宗大谷派の寺院で、1214年創建の歴史がある寺です。
性信房が開いた念仏道場の由緒を持つ、地味で落ち着いた雰囲気のお寺です。
鯉で有名な寺で、御朱印も人気なスポットとなっています。
建保二年、親鸞の高弟性信によって開かれた浄土真宗大谷派の寺院で、初めて下総国横曾根にあったが、慶長7年に江戸に移転した。その後、市中を三転し、文化7年に現在地に至る。本鐘が建造されたのは、慶安元年で、当時報恩寺は八丁堀にあった。銘文によると報恩寺十四世住持宣了および檀信徒の講中の発願で作られた。銘文の末尾に記されている鋳造者の堀山城守藤原清光は、江戸幕府の命令で京都から江戸に下った御用釜師堀浄英の息子浄甫を指す。父子とも当代一流の鋳造師で、浄甫の作品にはこの銅鐘のほか、渋谷区浄雲寺の銅鐘や日光東照宮の銅行燈や上野東照宮の銅行燈などが現存している。
上野駅からですと、歩いて15分位は掛かると思います。1600年代に建てられたという大きな鐘が特徴的な静かな雰囲気の街角に佇むお寺です。
地味ないい感じのお寺です。
〔坂東報恩寺・高龍山 謝徳院 報恩寺(真宗大谷派)/Houonji Temple〕親鸞さんの直弟子の第一といわれた、性信房は、常総市にお寺を開きました。江戸の初めに戦禍にあい、江戸に移転しました。<江戸でも転々とした>慶長5年(1600年)に常総の報恩寺は戦禍にあい、江戸に移転しました。外桜田、日本橋、浅草を経て、文化7年(1810年)に現在の東上野に移転しました。江戸でも、火災等で移転を余儀なくされました。常総の報恩寺は、幕末に再建されましたが、江戸の報恩寺は そのまま活躍しています。<教行信証の坂東本>このお寺に伝わる『教行信証』は坂東本と呼ばれ、唯一の親鸞さんの真蹟本で、国宝の指定を受けています。現在は、本山に贈られ、京都国立博物館に預託されています。<俎開き>正月には、常総市の大生郷 天満宮(常総市)から鯉が贈られ、四条流の庖丁人が鯉をさばくという 「俎開き」という行事が伝えられています。〔アクセス〕東京メトロ 稲荷町駅 徒歩4分。
健保2年(1214)に下総国横曽根(現在の茨城県水海道市)に親鸞聖人の第一の弟子である性信が念仏道場を開いたのがはじまりと伝わります。残念ながら住職がご不在とのことで、御朱印は頂けませんでした。
落ち着ける。
性信房は、文治三年(1187)常陸国鹿島神宮の神官の家系である大中臣氏に生をうけ、鹿島の神職出身の順信と俗縁があるらしい。幼い頃より悪童、腕白ぶりを発揮し、青年になっては怪力無双の無法ぶりで、世間からは七十五人力の悪五郎と呼ばれる程であった。十八歳の時、紀州熊野権現に参籠して荒修行の後、神勅を蒙った。以来、心に深く感ずるものがあり、十九歳のとき上洛して黒谷に法然上人を訪ね、他力本願の教えに帰依した。この時、法然上人は高齢であったため、彼を高弟である善信房綽空(当時の親鸞の名)に託した。ここで聖人にとっても生涯初めての師弟の契りが結ばれた。そして法名を性信房と賜り、それからは聖人のいるところ必ず性信房の姿ありといわれ、常随眤近(じっきん)の弟子となった。親鸞聖人より14歳年下。
毎週土曜日の昼に自宅から歩いて馴染みのそば屋、腹ごなしの散歩途中にあるお気に入りのお寺です。台東区はお寺密集地帯ですが、この佇まいは見事です。20190413写真撮れなかったのですが、白鷺が一羽境内から飛び立っていきました。感動です。神様の使いですからね。しかし台東区のど真ん中の交通量も多い市街地、自然の河川なく水田や自然公園もないのにという疑問が。まさか餌付け?
子供の頃の遊び場でした。
| 名前 |
報恩寺 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
03-3844-2538 |
| HP | |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
|
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浄土真宗大谷派のお寺さんです。緑に包まれてきれいな本堂です。見上げるとパルテノン神殿のような太い柱が印象的。