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備前国老主席として備前藩の興亡を一身ににない、尊王か佐幕かで揺れる藩論を統一し、騒然たる幕末に東奔西走の青、壮年期を過した伊木長門忠澄、若狭改め長門・隠居名三猿斎。若い頃より風流人で書画をよくし、虫明窯に清風与平や真葛香山などを招き指導をさせ、また茶器を蒐集し茶事を楽しんだそうです。黒船防備の折でさえ、茶道具を買い求めたり御陣屋で茶会を催したりと、戦国武将のような風格を兼ね備えた大茶人だったとか。流儀を問わず各家元や茶人と交遊し、茶の湯文化に多大な貢献をして、今でも数寄者の鏡として称されています。元治2年、48才のときに「見ざる、聞かざる、言わざる。」の庚申塚の三猿に因み、自らを「三猿斎(さんえんさい)」と称してからは世俗から離れ、茶の湯三昧の風流生活に余生を、ここ少林寺で送ったそうで、その時に造った茶室が「三猿堂」です。現在改修され三猿斎の坐像が安置されているそうです(通常は非公開)。今でも年一回、三猿堂にて茶会が開かれており、その人柄が偲ばれます。