真田幸村の息吹感じる境内。
石碑『真田幸村 出丸城跡』の特徴
真田丸の跡地に立つ心眼寺は、家紋が六文銭で歴史を感じる場所です。
坂道を歩きながら出丸のイメージを膨らませる並木道が魅力的です。
たくさんの歴史ファンが訪れ、真田幸村の足跡を身近に感じられます。
真田幸村公 新撰組に興味のある方は、行って下さい。
真田丸、出丸城跡とされている地です。この場所一帯は台地となっており、起伏があり坂道が多いのが特徴的です。
ここに真田丸があったのかと思うと、胸が熱くなる。GW真っ只中の11時過ぎに訪問したが、観光客は自分一人だけだった。そんな時は、現在学校がある方向に視線を向けて、徳川の大軍が押し寄せてきているシーンを思い浮かべて浸るのも一興だ。
心眼寺の寺紋は真田家の家紋と同じ六文銭。大坂冬の陣の際に真田幸村が真田丸としての出城を整備した際にこの場所も取り込まれたが冬の陣の後に真田丸と一緒に破壊された。この場所に歴史的も戦術的にも素晴らしい真田丸があったと思うと来てよかった。
辺りの坂を見ながら想像すると、出丸のイメージが湧く!かな?でもあれやこれや思い浮かべて歩き回るのも楽しいです。
大阪城から南方、清水谷方面へは少し土地が下がっていき、この辺りでまた上り坂になります。お寺が並ぶあたりのお寺の門前にこのような、碑文があります。一帯が真田丸であったはずなので、全て正しいのでしょう。すぐ近くの高校の敷地には真田丸跡という石碑もあります。大坂城の守備の弱点を補強するための真田丸の意義は、このあたりを歩いてみていただければよく分かります。実際の大阪城の防御の弱点はもう少し南側という説もありますが、ここに出城を作られるとかなり厄介だったのでしょう。大坂の陣のイメージが湧き立つので趣深く、おすすめの場所です。
☆『真田丸』の東側曲輪が「出丸城跡」ある法眼寺周辺、真田丸の主郭は目の前の明星学園の敷地全体⚔️HKのブラタモリで周辺散策、心眼寺坂も紹介、周辺の地形を見ながら散策すると真田丸を実感、「日ノ本一の兵(つわもの)」真田幸村が居た場所と思うと更に感慨✨☆真田丸全体は南北350m・東西600m、主郭は南北200m・東西160m❗️1614年「大坂冬の陣」で越前松平・彦根松平・加賀前田が真田丸総攻撃、返り討ちにした真田丸『真田幸村』⚔️豊臣と徳川和議講和成立、真田丸の堀も全て埋め戻され破壊、翌年1615年「大坂夏の陣」では出丸跡のみ、正確な縄張は不明瞭🤔☆2016年7月、島根県松江市で『極秘諸国城図』の1枚に真田丸の絵図発見、現存する「真田丸最古の絵図」と判明、包み紙に元禄の表記から真田丸が破壊された後の江戸時代初期の制作絵図か⁉️そこに描かれた真田丸跡、東側に南北の道あり、通りに沿って3軒の寺院、その1軒が心眼寺か、正に「出丸城跡」‼️
たくさんの歴史ファンが訪れてます。大阪メトロの玉造駅から100メートルの距離です。大阪メトロの車内アナウンスもあります。しづかな住宅街です。
お墓もあるみたい。
| 名前 |
石碑『真田幸村 出丸城跡』 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
06-6764-0630 |
| HP | |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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大阪明星学園の敷地、そしてその奥に佇む心眼寺の境内――ここ一帯はかつて、真田幸村が築いた「出丸城」の跡地である。大坂城の南端、弱点とされていた「笹山」と呼ばれる丘陵地に、徳川勢を迎え撃つための防衛拠点として築かれた。幸村が紀伊・九度山から豊臣方の招きで大坂城に入った際、この地の地形を見て即座にその重要性を見抜いたという。出丸は、大坂城本丸からは惣構(そうがまえ)を越えた外側に位置し、土塁や柵、塀で区画されていた。構造は東西におよそ200メートル、三日月形の「偃月城(えんげつじょう)」とも呼ばれ、内部は上下二段に分かれていた。鉄砲による迎撃や石落としといった仕掛けも施されており、敵兵にとっては難攻不落の要塞だった。現在、真田山三光神社には大坂城へと通じると伝わる「真田の抜け穴」跡が残っており、今もなお人々の想像力をかき立てる。大坂冬の陣。真田幸村はこの地にわずか三千余の兵を率いて籠もり、徳川方の名だたる武将――前田利常・井伊直孝・松平忠直らの軍勢をことごとく撃退した。この出丸の奮戦は、冬の陣における豊臣方最大の戦果となり、徳川方にとってはまさに喉に刺さった小骨のような存在だった。講和にあたって、徳川側はこの出城の取り壊しを真っ先に求めた。敵からすれば、それほどまでに厄介な城であったのだ。いま静かな住宅街に姿を変えた真田山。その土に、あの冬、稀代の智将が見据えた戦略と意地が、深く刻まれている。