雨坪池の龍と共に、歴史を感じる。
龍神社社務所の特徴
130キロの力石は固定されており、動かせません。
雨坪池の伝説に出てくる龍が、神社名のルーツに!
社務所周辺が吉乃御殿の跡地とされる歴史深い場所です。
戦国絶頂期のプロローグ舞台は、この生駒御殿【生駒吉乃】(桂昌)は初め土田秀久(土田弥平次)に嫁ぎましたが、1556年9月に斎藤義龍との戦い(明智城の戦い)で夫・土田秀久が討死した為、実家の生駒家に出戻り、生駒御殿で暮らしていました。類い希な美貌、生駒吉乃に惚れこんだ年下の青年が織田信長でした。【蜂須賀小六】(蜂須賀正勝)は、1526年、蜂須賀城主・蜂須賀正利の長男として誕生母は宮後城主・安井重幸の娘・安井御前。父方、蜂須賀氏は、尾張国海東郡蜂須賀郷(現在の愛知県あま市蜂須賀)の国人領主で、美濃・斎藤氏に従っていました。1553年に父、正利が死去すると蜂須賀村を出て、母の故郷・宮後城(江南市宮後町)に移りました。当時は、尾張VS美濃の混乱期で蜂須賀小六は様々な武将に使えていきます。一時期、宮後城から約3kmと近い、小折(愛知県江南市)の名主・生駒家の食客となりました。【豊臣秀吉】は、尾張国愛知郡中村郷中中村に生まれます。現在の名古屋市の中村区にあたります。母の再婚の折、光明寺(一宮市)に奉公に出され、その後、宮後(江南市)に住む木曽川の川並衆の頭領一族の、蜂須賀小六と、親友となります。【川並衆】混迷の時代、大きな川の河川敷には、村を追われた罪人や、行く宛の無い人々が集まり国と国、領地と領地の境である木曽川中流にあった治外法権の中洲地『宮後』は、武装集団「川並衆」のたまり場となりました。そんな独立勢力「川並衆」を束ねていったのが蜂須賀小六でした。「川並衆」は、1560年の桶狭間の戦にも傭兵として信長軍に所属しています。これには、光明寺に住む、軍師:青井意足の加担も見られます。【生駒屋敷】年上の美人、生駒吉乃を目当てに足繁く通う織田信長。清洲城と生駒家の距離は約15kmで、馬を飛ばせば1時間位です。生駒家には、国境の地ならではの浪人や旅芸人などが多く集まり情報の集約地でもありました。そんな生駒屋敷に転がり込んだ、族の総長、蜂須賀小六族最年少のパシリ、日吉丸ある日、吉乃は、へうげもの日吉丸を信長に引き合わせることとなります。そして、・・・・・・
2021.04.30訪問社務所の辺りは、吉乃御殿の跡と言われています。吉乃さんは生駒家4代家長の妹で、夫の土田弥平次を1556年に明智城の戦いで亡くし、実家に戻ってここの御殿で、喪に服しておりました。そこに訪ねた織田信長とここで逢瀬を重ね、信長の室となり信忠、信雄、徳姫を授かりましたが、産後の肥立ちが悪く29才の若さで信長の願いむなしく亡くなったと言われています。手前の力石は祭礼の時、生駒氏が家臣の者にこの石を担がせ、力試しをさせて五穀豊穣を願ったと伝えられています。社務所の前に雨壺池があります。「一面池であったこの地に、農民が水田を作った折、干ばつに備える雨壺として残された。厳しい干ばつの年、雨壺の水を手桶ですくい曽本村の水神社運び、五条川の水を入れ替え持ち帰ると龍が暴れ狂って天に昇り、一転にわかに雨を降らせたと伝えられる。近くの久昌寺の地に八大龍王が現れたという水神社の碑文と符号すれば、至徳年間(1384~1387)の時代以来の伝承であると言われています」由来板より抜粋。現在の池に水はありませんでした。
名前 |
龍神社社務所 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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力石130キロ 固定してあるので動かせません固定してなくてもムリだけど雨坪池の伝説に龍が出てくるから向かいの龍神社の名前のルーツなのかも?