歴史息づく垂井一里塚。
浅野幸長陣跡の特徴
浅野幸長が陣を構えた歴史的な垂井一里塚の場所です。
中山道に現存する希少な一里塚として重要な史跡です。
関ヶ原の戦いに関わる浅野幸長の由緒ある陣跡です。
浅野幸長陣跡浅野幸長陣跡は南宮山の毛利秀元・安国寺恵瓊・長束正家らに備える為に垂井一里塚付近に陣を構えました。戦功を賞されて、紀伊37万で和歌山城主となりました。
2022年5月3日に垂井町史跡探訪の際に寄りました。現地へはレンタサイクルを利用したのですが、車だと駐車場がないので不便かともともと一里塚を目的に来たのですが、現地の説明板にこの説明がありました。後日、ネットで調べたら浅野幸長は6500を率いて徳川家康に従い、関ヶ原に参じた東軍では家康の本隊30000に次ぐ兵力で、その為、西軍の総大将である毛利秀元15000が布陣した南宮山への備えとして、関ヶ原本戦から離れたこの付近に布陣を命ぜられ、更に後方の池田輝政とともに、最後まで毛利秀元を牽制したとのこと今回の探訪で、南宮大社、吉川広家陣跡、池田輝政陣跡にも寄ることで当時をイメージすることができました。
浅野幸長陣跡の石碑が一里塚の上にありますが、元々は、一里塚に向かって左方向(東)にあったようです。
【垂井一里塚】に布陣した東軍【浅野幸長(あさの ゆきなが)】は毛利軍の布陣した南宮山を睨むようにこの位置に布陣し戦いに備えた。
中山道に現存する数少ない一里塚に関ヶ原の戦いの陣があったそうです。
浅野幸長陣跡でもある垂井一里塚。歴史(関ヶ原の合戦)を勉強してから訪れると楽しさが倍増するでしょう。
浅野幸長は関ヶ原の後、37万6千石にて和歌山城主となり、従四位下・紀伊守に叙任されている。
垂井一里塚が江戸幕府により整備される前にここに陣を構えました。垂井一里塚と共に説明がされています。
名前 |
浅野幸長陣跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.4 |
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浅野幸長(よしなが)は、東側にいる西軍の一部(毛利ら)に備えて、中山道の垂井一里塚に陣を構えたそうです。 ちなみに、浅野幸長の弟のひ孫は、浅野内匠頭です。