勝頼公の願文、心に響く。
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勝頼公の継室・北条夫人が戦勝祈願のため納めたとされる願文が刻まれています。原文・現代語訳両方あります。
名前 |
武田勝頼夫人願文石碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.7 |
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拝殿の隣に石碑が建立されています。当時の女性らしいひらがな交じりの、細い文字の原文が上段に掘られてあり、下段は読みやすいように読み下し文が掘られています。1582年に武田信玄公の娘婿であった木曽義昌公が織田方に内通したことが発覚。人質となっていた義昌公の家族は処刑されました。2月12日に織田軍が岐阜城を出陣し 武田領への侵攻を開始。武田軍は裏切りや逃亡が続出し組織的な抵抗が出来ず、次々と城が自落します。武田軍の劣勢を受けて、2月19日に北条夫人が武田氏の氏神だった武田八幡宮に願文を奉納します。主な内容としては、親類衆だった木曽義昌は、長年の恩を忘れて人質も見捨てて裏切った。状況は武田軍に不利であり、是非ご加護を与えてほしい。武田が勝利した暁には社壇などを建立します。といった感じです。その後2 月27日には信玄公の娘婿・穴山信君公の裏切りが発覚し、3月3日に新府城を焼いて落ち延びますが、3月11日に勝頼公、北条夫人共に自害します。北条家に戻ることを勧める勝頼公に対し、北条夫人は共に自害することを主張したそうです。