住宅街のひっそり史跡、安心感あり。
庚申供養橋塔の特徴
住宅街の静かな場所に佇む隠れた史跡です。
散策中に訪れると心が落ち着く空間があります。
歴史を感じるスポットとしておすすめの場所です。
住宅街の路脇にひっそりと佇む史跡です。「櫛形角柱型」の「庚申供養橋塔」で、正面には、「梵字(種子ウーン)/庚申供養橋」や「橋講中の世話役や万人講及び個人の名」が陰刻されています。側面には、「旹/明和四丁亥十二月朔日」と陰刻されています。隣には「百番供養塔」が建立されています。庚申供養橋塔は、明和4年(1767)に建立されたようです。庚申供養橋塔とは、その昔、石橋を架ける時に、石橋が丈夫で通行人が安全に渡れるよう祈願したものでした。その名残なのでしょう。塔の背には、当時の石橋の橋台跡と思われる石の一部を見ることが出来ます。少なくとも300年以上も経過していることとなり、大変貴重な史跡ではないでしょうか。現在ではその痕跡は一切確認出来ませんが、その当時はこの場所に小川などが流れていて立派な石橋が架けられていたのかもしれませんね。と思っていましたら、明治、大正、昭和の古地図を調べた結果、この地の地名の由来となっていた「六ツ川」という小川が流れていたそうです。この一帯は農地が多く、六ッ川の裏には民家はなく、山と森が広がっていて、温泉宿があったそうです。近くには溜め池が存在し、今はマンションが建つ側に向かうように温泉宿とを繋ぐ橋が架けられていたそうです。そして肝心な庚申供養橋塔に纏わる橋ですが、古地図からそれっぽい感じな地形が二ヵ所ありましたが、はっきりと橋という表記は見つけられませんでしたが、川を跨ぐように道が繋がれていたので橋があったと考えられる程度です。そのため、名前などはわかりませんでした。300年の時を経て、今は、古い道も橋も六ッ川も失われ、マンションや宅地、飲食店などに様変わりしていますが、この庚申供養橋塔が建つ道路の緩やかな傾斜とカーブは六ツ川の名残だったのです。びっくりですよね。また、庚申塔は庚申信仰から、路脇の道祖神のように建立されることが多く、行き交う人々の道標塔でもありました。その昔は川の隔たりが村落の境界線だったことも多かったそうです。その場合、村落の境界や道沿いに健立されることが多いそうですが、この庚申供養橋塔には道標を示す陰刻が無さそうです。純粋に石橋供養の物と思われます。そんな庚申供養橋塔の隣には、種子(ウーン)と梵字が陰刻された「百番供養塔」が併設されています。寛政11(1799)年に建立されたようですね。庚申供養橋塔健立から32年後に健立されたようですが、巡礼に縁のある石橋だったのかもしれませんね。そんな「百番供養塔」とは、西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所の札所の数を足すとちょうど百になります。これを全て巡礼することを達成した人が記念碑的に建てた物らしいです。それ故にパワースポットでもあったらしく、実際に現地の札所を回らなくとも、この百番供養塔を参拝することで、百箇所の巡礼を達成したことと同じ御利益が得られたのだそうです。なんだか凄そうな感じがしますね。この史跡は2019年03月26日に横浜市ホームページがリニューアルするまで、南区の歴史ページに、写真と場所の記述は無く箇条書き程度でしたが「庚申供養橋塔と百番供養塔」の見出しで、年代が一致する掲載がありました。その記述によると南区では一基しか現存していない大変貴重な物だそうです。その後のリニューアルした横浜市ホームページによると。横浜市中央図書館に秘蔵されているタイトル「南区の歴史」出版者 「南区の歴史発刊実行委員会」出版年 「1976年」に、掲載されているとのことです。横浜市ホームページのリストには「庚申供養橋塔(六ツ川)」の名称で記載があります。とはいえ、この史跡は管理されている訳でも、説明書きがある訳でもないため、風雨にさらされ劣化が進んでいますが、300年以上もの長い悠久の時を旅し、ここにあり続けているということは、長い間守られて来た訳で、何とも不思議な空間に感じられる史跡ですね。
| 名前 |
庚申供養橋塔 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
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庚申待が今もあるんだなと、少しは安心出来る場所…若干の違和感が感じられます。