北村西望の作品、心に響く。
明治14年、大町1丁目で父善治、母トヨの次男として生まれる。常次郎は函館四天王の1人平塚時蔵の甥にあたる。常次郎はこの時蔵の家に生まれ育った。明治20年、弥生小学校入学。前後して東京へ嫁いだ母の嫁先き、三倉屋という回送問屋に養子としてもらわれる。不慮の事故により、実家へ返され間もなく、父が郵便局長として択捉の沙那へ赴任、同地の小学校を卒業する。明治31年露清語学校(札幌)に入学、2年後学制改革で退学、翌明治34年入隊、明治38年除隊。入隊前後に露領漁場での買魚を体験する。この間、アムール河畔の漁場で堤清六と出会い、日本を世界に押し出すという、より積極的な夢をもって生涯の協力者とした。明治40年堤清六と提携し、新潟市東堀前通りに堤商会を開設、同年7月、日露漁業条約調印。翌年ウスチ・カムチャツカの2漁場を落札し宝寿丸、喜多丸で出漁して缶詰に着目、その2年後には着手している。堤清六の没後川上、窪田のあとを受け、昭和13年社長に就任する。第2次世界大戦後は政界に進出、昭和21年第1次吉田内閣の運輸相となるが、1年足らずで公職を追放される。昭和27年日魯社長に再就任し北洋漁業の再建に尽力した。昭和49年4月4日、世界の漁業界に、雄飛せしめた平塚常次郎は92歳で没し、18日には市主催の追悼式も行われた。その英姿は市民会館前庭の噴水の中に立つ。函館市文化・スポーツ振興財団HPより。
名前 |
平塚常次郎像 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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平塚生前の1968年、北村西望の作。かつては湯川公園の噴水広場にあり、同公園では花時計と並ぶ名物だった。近所に住んでいた幼少時はよく園内を散策し、毎日のように見ていたので、個人的に馴染み深い。2015年に湯川公園は函館アリーナに変わり、平塚像は引き続きアリーナ敷地内に(位置と台座を変えて)置かれているが、どうも噴水とセットでないとしっくりこない(なんとなく隅に追いやられたような気がする)。