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ウォーキングで巡る那覇の河川・樋川・井戸・湧水その115 【那覇市上間1丁目】2021/02/23①場所(上間1-19-3西側小路奥)●真和志間切番所跡の裏の道に入口があり、住宅の間の小路奥に井戸跡がある。●この辺は上間當り原(ウィーマアタリバル)であった。②井戸●子の方の御井跡(ニーヌファーヌウカー)●上間1-48(旧 所在地)●番所跡の北方にある。ハンタの嶽とクサイの井戸。今は、涸れているが、戦前は一般の飲料水として使っていた。●上間誌に記載されている。③真和志間切番所跡●琉球王国時代から、1908年(明治41)にかけての行政単位である真和志間切の行政を管轄した番所(役所)跡。南風原・西原間切とともに首里王府の直轄領であった真和志間切は、当初、那覇なども含む広大な間切であった。その後、那覇・久米村の独立、小禄間切の分離設置などによって、真和志間切は天久・識名・国場など12 ヵ村をもって構成された。間切番所は、上間村に置かれ、地頭代(ジトゥーデー)以下の間切役人が、村々の耕作状況や年貢収納などの監督・指導を行った。1879年(明治12)の沖縄県設置後、1899年(明治32)の沖縄県間切島吏員規定(おきなわけんまぎりしまりいんきてい)により番所は役場、間切役人は間切長・書記などと改称された。さらに1908年(明治41)4月の沖縄県及島嶼町村制(おきなわけんおよびとうしょちょうそんせい)の施行により、間切は町村となり、真和志間切は真和志村となった。真和志間切番所は、その後も間切役場・村役場庁舎として使用された。1926年(大正15)に国場(現真和志支所敷地)へ移転して、1957年(昭和32)に、那覇市との合併で那覇市真和志支所庁舎となった。参照:那覇市歴史博物館参照:上間誌。