ニニギノミコトの神聖な地。
ニニギノミコト御陵墓参考地の特徴
ニニギノミコトの陵墓は天照大御神の孫による神聖な地です。
西郷隆盛宿陣跡資料館から徒歩5分でアクセス可能な史跡です。
整備された静かな環境で、歴史探訪がしやすい場所です。
西郷隆盛宿陣跡資料館のすぐそばです。
ニニギノミコトは天照大御神の孫にあたります。この近辺は痩せた地で稲作が出来る土地は僅かだったようです。
日本書紀に記載されたニニギノミコトの陵墓。きちんと整備されているが、もっと知られて良い場所のはず。旧薩摩藩との力関係で違う場所が指定されてしまい、地元の方も諦めてしまったのだろうか。
瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)は、天照大神の孫です。そして、天照大神の勅命を受け、天界(高天原)から地上(日本)を治めるために降臨された神様です。彼の名前の意味は『天地が豊かに賑わう神』です。この神様の陵墓の場所は、次の3か所のいずれかとされています。しかし、陵墓の場所は断定できないため、それは陵墓参考地(りょうぼさんこうち)とされています。1 鹿児島県薩摩川内市2 宮崎県延岡市北川町3 宮崎県西都原古墳群の男狭穂塚はニニギノミコト、女狭穂塚は后のコノハナサクヤヒメです。ニニギノミコトの陵墓の場所については、日本書紀(720年)の記述によって推測されています。『久之、天津彦彦火瓊瓊杵尊崩、因葬筑紫日向可愛此云埃之山陵。』とあります。つまり、ニニギノミコトは筑紫の日向の可愛の山(えのやま)の陵に葬られたとされています。しかしながら、日向国は昔、広域にわたっており、宮崎県や鹿児島県の一部も含まれていました。このため、1792年に薩摩藩の国学者である白尾國柱が『神代山陵考』において、可愛山稜は薩摩国水引郷新田村にあると主張しました。明治新政府が成立すると、明治維新で活躍した薩摩藩の意向を反映し、1874年に鹿児島県薩摩川内市にニニギノミコトの陵墓があるとの見解が示されました。しかしながら、この場所には可愛山陵が存在せず、宮崎県が異議を唱え、1926年に延岡市北川町の可愛山陵の場所も陵墓参考地とされることになりました。ところで、日向国は702年8月1日に起こった薩摩らの叛乱を契機に、現在の鹿児島県本土の西部(鹿児島県薩摩川内市含む)が、10月3日までに唱更国(はやひとのこく)(704年には薩摩国に改称)に分立したことを付け加えておきます。また、西都原にあるという説は1825年、兒玉實満が記した『笠狭大略記』によるものです。
色々と諸説有りますが、最有力とされるニニギノミコトの陵墓候補です。ここなんですかね?
神聖なる地かな。ここがあったから西郷どんが最後の宿営地に選んだとか選んでないとか。
北川陵墓天照大御神瓊瓊杵尊神々が宿る場所でした。
天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)は天照大神の孫(天孫)で、神武天皇の曾祖父に当たります。その御陵墓「可愛山陵(えのみささぎ)」についてはその実在性を含めて諸説ありますが、明治7年(1874年)政府により鹿児島県薩摩川内市宮内町の神亀山に治定されています。これに反発する声を受けて明治28年(1895年)には北川町俵野の陵を御陵伝承地に、西都市の男狭穂塚を御陵参考地に定めています。(翌年の明治29年とする資料もあり)大正15年(1926年)宮内庁により北川陵墓参考地に治定されました。
天照大神の孫の墓とされている。仁徳天皇陵には比べ物にならない程、厳かな終焉の地であり参考地?何を持って神話の世界の話を宮内庁はここを終焉の地として認定したかが不明、神武天皇でさえ紀元前660年以上前なのに。
名前 |
ニニギノミコト御陵墓参考地 |
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ジャンル |
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電話番号 |
075-601-1863 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.0 |
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ニニギノミコトの陵墓参考地です。駐車場が西郷隆盛宿陣跡資料館のすぐそばにあり、そこから徒歩で見に行くことが出来ます。夕方に行きましたが付近に誰もおらず、雰囲気があって少し怖いです。陵墓参考地は宮内庁が管理されてるので立ち入ることも調査等も禁止されています。