富永有隣の土蔵跡で、歴史を感じるひとときを。
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説明板後ろ、竹の切り株があるあたりが、富永有隣が晩年閉居していた土蔵の跡地のようです。
名前 |
富永有隣 碑(富永有隣旧宅跡・終焉の地) |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
4.3 |
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ちょっと草が目立ったかな。きれいに保つのは大変です。富永有隣は、文政4年(1821年)現在の山口市陶に生まれました。幼少のころ、天然痘を患って片目を失い、後遺症で容貌が悪くなりました。そのせいか人間関係が上手くいかず、嘉永2年(1849年)告げ口で陥れられ萩沖の見島に流され、翌年(1850年)萩の野山獄に囚われました。獄中で吉田松陰と知り合い、出獄後は松陰の計らいで松下村塾で塾生を指導し、松陰の死後は秋穂二島や名田島で塾を開きました。慶応2年(1866年)四境の役、明治元年(1868年)戊辰の役で活躍し明治維新に貢献しました。明治2年(1869年)脱隊騒動では、兵制改革に反対して脱隊兵の首領となり、捕らえられました。明治17年(1884年)恩赦で出獄、宿井村瓜迫の末岡家(妹の嫁ぎ先)を頼って身を寄せ、著述のかたわら塾を開き地域の子弟の教育にあたりました。明治33年(1900年)79歳で亡くなりました。牢に捕われる、塾で教えるを繰り返した有隣の人生は、国木田独歩の「富岡先生」のモデルだそうです。