沖田畷古戦場で学ぶ歴史。
二本木神社(沖田畷古戦場跡)の特徴
信長の野望のファンには特別な歴史が感じられる場所です。
沖田畷古戦場跡は龍造寺隆信の最期の地として知られています。
企業の敷地内にあるため入場時は注意が必要です。
沖田畷古戦場跡。有馬、島津連合軍VS龍造寺軍決戦の地。
企業の敷地内にあるので、入る時は声掛けしてからですね。当時は有明海の干潟エリアと繋がった湿地帯だったようです。
天正12年(1585年)3月24日朝から龍造寺隆信は兵25000を率いて、有馬晴信・島津義久軍8000と沖田畷(おきたなわて)で戦いました。龍造寺軍戦死者約三千名など両軍の犠牲者を埋葬した所に供養塔を立てています。この供養塔は、この土地にあった祠百二十九個を一箇所にまとめ昭和4年5月に建立したものだそうです。当時沖田畷は、胸までつかるほどの湿地帯でその中を細い一本道が通っているだけでした。地理に不案内な上、大軍を誇りに油断していたのか、龍造寺軍は苦戦を強いられ、その日のうちに大将の隆信が島津軍の川上左京亮に首をはねられて戦は終わりました。さらに南の方に二本木神社があります。二本木神社は、隆信公を失った家臣のうち住みついた人たちが戦死をいたみ、その霊を慰めようと小祠を建て霊を祀っています。国道251号線沿いに看板が出ています。
ここは南高貨物自動車(株)の敷地内なので、断りを入れてから入らなけばならない。自分の場合は声をかけてくださり、案内していただけました。
「肥前の熊」ここに散る。現在この地に立って両軍6万とも云われる激戦を想像することはできませんが、こうして碑を保存して頂けることが何よりありがたいです。
ここは、現在個人の所有地の中ですので許可をもらって入りましょう。1584年肥前島原半島で勃発した戦いで、龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久の合戦になった場所です。龍造寺軍の兵力は57000名に対し有馬晴信・島津家久の連合軍は1万名と圧倒的に差がありました。有馬・島津軍は泥田と湿地帯を縦貫するこの沖田綴に龍造寺軍を引き込み戦いました。この合戦で龍造寺軍は敗退し、隆信は首を落とされることになります。
龍造寺隆信の最期の地。しかしまるで隠すように存在しているのは、武力で臣従を迫った龍造寺隆信を今でも島原人が忌むべき存在と思っているからだろうか…。
島津軍と龍造寺軍との戦い。戦国時代九州最強は島津でしてが、家族や家臣や領地領民を守るため凌ぎを削ったことはいうまでもありません。無秩序の中上記のものを守るため必死で生きたことと思います。
名前 |
二本木神社(沖田畷古戦場跡) |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.8 |
周辺のオススメ

他の方がきちんと色々書いて下さっているのでココでは書きませんが信長の野望のファンのワタクシとしては感慨深い場所です。