万葉集の歌碑、歴史を感じる。
佐野の船橋歌碑の特徴
歴史に根ざした万葉集の歌碑がある場所です。
上信電鉄の駅名に由来する史跡と知り驚きました。
児玉往還に位置する佐野の船橋の存在感が印象的です。
上野(かみつけの)佐野(さの)の船橋取り放(はな)し親は放(さ)くれど我は離(さか)るがへ\t<万葉集>との事です。
また歴史に関係した場所であることを初めて知ったのですが、これが上信電鉄の駅の名前になった佐野のわたしに関係していたと聞いて驚きました。船が関係しているということは、以前佐野橋がかかっていたことを物語っていたという証でしょうか。現在の佐野橋とは場所が全然違うと思うので戦前まで遡る必要があると思います。別の神社には歌謡曲の「鉢の木」に関する碑があるとのことで、こちらも佐野のわたしと関連があるかもしれません。
歌碑の面は全く読めません。市街地にあり、川の風情もありません。
名前 |
佐野の船橋歌碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.9 |
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児玉往還(川越宿〜中山道高崎宿新後閑)の佐野の舟橋での歌碑。高崎市ホームページの「文化財情報」より一部抜粋して転載し紹介する。歌碑には船木(ふなき)観音の文字と、馬頭(ばとう)観音の線刻画像(せんこくがぞう)の下に、万葉仮名で、「かみつけの佐野の船はしとりはなし、親はさくれどわはさかるがへ」と刻まれています。これは、万葉集巻十四、東歌(あづまうた)の一首です。この碑は文政10(1827)年、高崎城下新町(現在のあら町)にある延養寺の住職良翁(りょうおう)が建てたものです。良翁は文学僧として知られ、「以呂波便蒙鈔(いろはべんもうしょう)」や、天明3(1783)年の浅間山噴火について記した「砂降記」などの著作を残しています。船橋はここから見下ろした佐野窪(さのくぼ)の田んぼの中に石宮があり、そこが橋のたもとであったと伝えられています。