戦国期の山城を体感!
大沼城跡の特徴
二の丸まで整備された令和の歴史スポットです。
戦国期の山城で、歴史の深さを感じる場所です。
狭い片側一車線の道路沿い、案内板が目印です。
片側1車線の道路が狭くなる、お寺の東側辺りに案内板があります。分岐を東へ進むと左手にすぐ登城口が有ります。最初は段々曲輪が続き、比較的広く手入れされている、三の丸二ノ丸、本丸に着きます。案内板があるのは本丸までですが、北東側に2、3、祠のある郭まで登りで続きます祠の曲輪の南側に降ると1つあり、そこからは不明瞭でした。北側は緩やかに降り別尾根になり城域は終わるようです。段曲輪、切岸が主で、土塁空堀といった技巧的所はあまり見られませんが、本丸よりも祠の曲輪のほうが高所に有るのが変わってる所かと思いました。
道からは180mで5分で登れます。二ノ丸跡は少し開けていますが、特に整備はされて無く、本丸跡からも眺望は有りません。
戦国期の山城のようです。近くには徳川家発祥の地である松平地区があり、松平城址、大給城址などの山城が点在する三河の支城群のひとつのようです。写真の案内板を右に入り、分岐する山道を徒歩で150mほど登ると大沼城跡に着くとのことです。ただ伺った日は梅雨の真っ只中で路面濡れ人気もないので登りませんでした。案内板によれば、小さな曲輪を繋いだ縄張りで、典型的な山城構成です。江戸時代に入る前に廃城になったとありますので、現存する天守閣も館跡も無い城跡として往時を想像しながら散策すると楽しいと思います。
2020年8月9日行って来ました。先ず行き方ですが、直接Googleナビで大沼城跡セットして来れます。駐車場は有りませんが大沼城跡へ入る道に行って、奥まで行ってUータンしその道に駐車しても問題は無いと思います。感想です。結構大きめな山城です。実際登って見ました。登りの入口から見ると整備されてると思いましたら出来た当時は綺麗だったのでしょう。しばらく登ると階段などすっかり朽ち果ていてかなり苦労します。でも結構見応えが有るので面白いと思います。登り口からもう1度整備したら良い感じの城跡になりますね。ここからネット引用です大沼城は、文明年間(戦国時代初期)に、木村東見入道安信が築いたとされる山城で足助の真弓山城(足助城)や近くの田代城などとともに、足助七城の一つに数えられていました。初代城主木村安信は、信仰あつく城の西麓に入宝山神宮寺を建てた後、天文2年(1533)に死去しました。2代新九郎信元のとき、天正2年(1574)4月―元亀2年(1571)とする説もある―大沼城は甲斐の武田軍によって攻め落とされ、信元も討ち死にしました。そして、天正3年(1573)には、信元の養子松平親清(大給城主松平乗元の二男)が、大沼城主となりました。親清は入宝山神宮寺を八沢山洞樹院と改めて、菩提寺としました。親清の没後天正11年(1583)摘子の近正が跡を継ぎ、徳川家康の旗下で軍功を立てました。そして、天正18年(1590)家康の関東移封後、上州三の倉(群馬県)に5000石を賜って三河を離れました。大沼城はその頃廃城になったと考えられます。下山村教育委員会。
名前 |
大沼城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.1 |
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二の丸まで整備されてるが、本丸までがまだ迷う。