新喜多新田の蓮咲く道。
新喜多新田会所跡の特徴
新喜多新田会所跡は江戸中期に開発された水田の跡地です。
建物周囲には美しい蓮の鉢が数多く配置されています。
歴史的な名所で新喜多の由来となる人物たちが関わっています。
この辺りで行われた新田開発の会所跡です今でこそかなりの住宅密集地やけど当時は一面田んぼやったんやな!
まだ、行ってないですが、他にも、会所跡が、残ってます。鴻池新田と、加賀屋と安中は、整備されてます。
この辺り江戸中期、新しく開発された水田があったところだ。そしてここはその会所跡、いわば事務所だ。古写真が残っているが、いまも板壁などに面影が残っているように思う。
細い道で分かりにくい所ですがこの建物の周りに凄い数の蓮の鉢があり、その時はまだ咲いてはいなかったですが咲けばさぞやきれいだろと思う。この場所のいきさつ、なりわいとはなんの関係もないけど、、、、。
後ろが旧家なのでなかなか。
『新・喜・多』の意味がよく判ります。
名前 |
新喜多新田会所跡 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
06-6930-9683 |
住所 |
|
HP | |
評価 |
3.3 |
周辺のオススメ

新喜多新田会所跡にある案内板の説明では、鴻池新十郎、鴻池喜七、今木屋多兵衛の名前の頭文字を取って、「新喜多」と名付けたとあります。このこちらも鴻池一族が関わる開発事業でしたが、独占的なイメージを弱めるためなのか、名付けを少し工夫したのかもしれません。また、明治18年頃の地図にある、この会所西側にあった川も今は無く、その跡が公園になっています。大和川の付け替えが行われる、宝永元年(1704)以前も、何度かの河川改修事業が行われていましたが、根本的な解決にならず、宝永元年に至り、抜本的な大規模工事となりました。大坂冬・夏の陣当時は、この案内板にあるような地形で合戦が行われており、鴫野・今福の合戦は、この地形に沿って両軍が刃を交え、その後、勝利した徳川方東軍勢力は、蒲生村付近から大坂城に向けて大砲を撃ち込んだりしています。