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名前 |
二義少年の碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
▼ 1663(寛文3)年の恋路村と七房村の水争いの犠牲となった2人の少年の慰霊のための石仏です。▼ 恋路村は七房村よりも下流にあり、水利権では不利な立地にありました。そこで……① 干ばつの際、中恋路・下恋路の2人の少年が山口祇園祭の手薄なタイミングを見計らって、思い切って一の井出(用水路にある小さなダム)を切った。② 下流の恋路村は水を得たが、上流の七房村との諍(いさか)いが激化。③ 2人の少年が藩主に直訴する。④ 藩主の命令で、以後は干ばつの際には、両村で水を分け合うことが許可される。⑤ 2人の少年は直訴(じきそ)の罪で、萩(大屋処刑場)で処刑される。⑥ 恋路村の人々は、少年2人の遺体をもらい受けてきて、中恋路(杉山定巳邸前)と下恋路(徳田孝邸前)に手厚く葬り、石仏を立てた。⑦ 1975(昭和50)年、一の井手改築記念に、合同碑として記念碑が建立された。▼ 中恋路と下恋路の墓所は、現在は野面石が残るのみとのこと。(2017/11/08ヒアリング)(『歴史の道調査報告書』p.168f/『宮野八百年史』pp.178-185)▼ ①の祇園祭は、原則として村民全員参加型のお祭りでした。これに参加しないと「疫病神」に取り憑かれて罹患し、村に疫病を流行らせてしまうと信じられたからです(『大学的やまぐちガイド』p.52)。▼ どんなに正しいことでも、下層階級の人間が上の者に嘆願や提案をすることは禁じられていました。これが封建秩序。当時は、誰もその非合理性を疑わなかったみたい。