縄文の歴史感じる竹内街道。
竹内街道の特徴
三輪山の麓に位置する歴史深い街道です。
日本最古の官道としての歴史的価値があります。
縄文時代の痕跡が見つかる遺跡の宝庫です。
古代逍遥~消えゆく街道を往く/動画で綴る街道譚【撮影対象】古道街道/社寺仏閣/道標元標/往還往来/古墳環濠/奇岩奇石/万葉歌碑《はじめに》推古天皇によって開かれたというこの街道ではありますが、古くは「縄文時代」からという痕跡も発見されております。当然のように「本筋」を彷徨うだけでは到底見つかることもない『歴史の証言者たち』なので時には大幅に外れてその歴史的価値を見出せるかということもポイントになります。動画制作者は一度の投稿だけではなく多くの有識者からの意見をもとに一年後の締め切りを目途に更なるアップグレードを果たそうと考えております。〈投稿日 2024.8.23〉《竹内街道 第一章(全三章)》その①出発地点:大小路難波(なにわ)の起点である大小路交差点でこちらは紀州街道、西高野街道、などと交差し近くには長尾街道や熊野街道まで行き来するという交通の要衝でした。古くはこちらからの文化や物流品の流れが当時の京(みやこ)である平城飛鳥まで繋がることは政治的に必要なことであったのかもしれません。もちろんそのあと中世には広大な商いの拠点として「環濠集落」ができあがり、難波津の堺が強大化していきました。こうした流れを歴史街道「竹内街道(たけのうちかいどう」をゆっくりと歩きながら、その両側の民家や標をひとつひとつ確認しながら竹内街道の長い歴史を感じてゆきます。竹内街道の本筋は西高野街道とともに、榎元町《竹内街道 分岐点》を経て中央環状線けやき通り南入り口交差点に到達します。
📆2023-11月3つの街道の接点。
堺市の大小路(おおしょうじ)から奈良県葛城市の長尾神社までを結ぶ、日本書紀にも記されている日本最古の官道(今で言う国道のようなもの)だとされている竹内街道(たけのうちかいどう)です。かの聖徳太子もこの道を通って四天王寺と飛鳥の地を行き来したかもしれない大変歴史のある道ですが、それゆえに道幅がとても狭く、車が離合するのも大変そうで、歩行者もその際には横に避けなければいけません。街道沿いには金岡神社があり、またその周辺の脇道にはお寺も多くあり、歴史を感じられます。
名前 |
竹内街道 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.2 |
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神奈備として崇められた三輪山の麓。竹内街道は、奈良盆地南東部の町、桜井を起点とし、ほぼ一直線に大和国を西へ二上山「にじようさん」へ進んで、二上山の南方、竹内峠を越え河内国へ向かう。さらに西進して南河内を横断すると、中世に自治都市として繁栄をきわめた大阪湾岸の堺に至る。全長40kmほどのこの道は、現在、桜井か古市から県境を越えて大阪府の古市までが国道166号などにほぼ相当し、その先の堺へも主要道が通じている。七世紀の初めの頃、第三十三代推古天皇の時つくられた道で、この道の開発のために百済から渡来したみちのこのたくみ(路子工)という役人が起用されたという。推古朝以前の古墳時代前期から飛鳥と難波を往来する人々は、渡来人も含めて多かったと推測出来ます。推古朝で官道として整備されたのは、小野妹子らの遣隋使が大陸からの使者を飛鳥に招来するために立派な道路が必要だったからではと思います。竹内街道の名で呼びならわされるようになったのは江戸時代のことだが、この道の歴史は古代にまでさかのぼる。『日本書紀』推古21年(613)条には「難波より京に至る大道を置く」との記事があり、このときに整備された「大道」が、まさに竹内街道の前身といわれる。「京」とは都をさす。当時の都は、桜井の南西にある飛鳥(明日香)であり、堺の北の難波には、ヤマト朝廷の外港として重んじられた難波津があった。難波は、瀬戸内航路を通じて大陸と結ばれた外交拠点であり、難波と都を直結させるために国家いたこの官道は、いわば古代の国道1号”であった。遣隋使の小野妹子や外国の使節団もこの道を通ったとされています。難波の港に着いた最新の文化や技術もこの道を通って飛鳥(シルクロードの終点地)へ運ばれ、「外交の道」として栄えました。聖徳太子信仰が盛んになるにつれて街道沿いにある聖徳太子御廟やそれを守る叡福寺が霊場となり、「信仰の道」としてもにぎわいを見せました。江戸時代には、お伊勢参り、大峰詣、當麻詣などが盛んになり、「宗教の道」として街道沿いには道標が建てられ、旅籠や茶店などが軒を連ねました。しばらく寂れていた竹内街道は、明治にこの街道の整備がはじまる。山家「さんか」や山岳宗教家などか集められ、二上山麓に掘立て小屋を建て、住ませて工事に当たらせた。所謂山家狩りが始まった。