聖武天皇の足跡、恭仁京でのんびりと。
恭仁宮跡(山城国分寺跡)の特徴
聖武天皇の足跡を辿れる貴重な史跡です。
コスモス咲く静かな場所で、のんびり過ごせます。
山懐にいだかれた地の歴史を感じられる環境です。
巨大な礎石が残されています。ARで在りし日の塔を見ることができるようになっていて、コスモス畑のほうから見るとなかなかに美しい!
特にイベントがなければ、人出も少なくのんびりとした時間を過ごせる。1300年前の都に思いを馳せ妄想に浸るのにはもってこいの場所。ただ、近くに売店などが無いので飲み物は事前に用意する事をお勧めします。
加茂駅から大きな道沿いに行くのが分かりやいですが、今の時期田んぼの横を彼岸花を楽しみつつ行くのが一興です。歩いて20分位で行けます。1200年位前に一体どうしてこんな加工が出来たんでしょうかね?と感嘆します。ここに来る前にくにのみや学習館に立ち寄ることをおすすめします。
飛鳥・藤原時代に伝承した仏教と、そのころに始めた遣唐使は、日本に新しい文化・芸術・技術をもたらした。貴族社会が中心ではあったが、日本独自の文化が花開く。美術・文学・建築などを中心としている。これを「天平文化」と呼ぶ。しかし、聖武天皇時代は社会不安が増大する。息子の基親王は2歳を迎える前に死亡する。右大臣長屋王は冤罪で師に追い込まれる。疫病の大流行。藤原広嗣の反乱と厄災が続いた。聖武天皇は仏教の力で国家の安泰を得ようとした。国分寺・国分尼寺の建立を命じた。天平15年(743年)に国分寺の総本山として大仏と寺を造る「大仏建立の詔」を発した。良い都を求めて遷都を繰り返した。5年間で恭仁宮(京都府木津川市)、難波宮(大阪市)、紫香楽宮(滋賀県甲賀市)と繰り返した。そして、天平17年(745年)に平城京に戻る。
京都府木津川市加茂町にある史跡。西暦740年(天平12年)から4年間都がおかれた場所です。大仏発願で有名な聖武天皇は、藤原広嗣の乱のあと、戦乱や疫病の鎮静化を願って都を平城京から恭仁宮に遷都します。しかし都の造営が終わらないうちに天皇は近江紫香楽宮に移り、さらに難波宮へと遷都を繰り返します。結局、745年(天平17年)にはもとの平城京に帰ってくることになります。このあたり、教科書でも詳しく説明はされていないので、短期間の都であった恭仁宮については知らない方も多いと思います。恭仁宮は平城京の3分の1ほどの面積しかない、コンパクトな都として計画されたようです。しかしいまこの土地の地勢を見ると、内裏が置かれた場所には多少開けた土地がありますが、周辺は木津川や山などにかかっており、とても広い都を設営するのに適した土地とは思えません。それほど急いで遷都を行わなければならない事情があったのでしょうか。都が放棄された後、ここには山城国分寺がおかれ、鎌倉時代くらいまでは建物が残っていたようです。都の跡地は現在、国分寺跡と合わせて史跡として整備されています。コスモスや彼岸花が咲く広場には礎石跡や石碑などが残るのみで、都の姿は忍ぶべくもありません。それでもここに立って風に吹かれていると、遠い昔、世を治めることに思い悩んで遷都を繰り返した聖武天皇の心情が、朧げにでも思い浮かべられるような気がします。なお恭仁宮については、近くの「くにのみや学習館」に詳しい説明があります。
2024年8月15日に見学しました。当時の山背(山城)国は、光明皇后の実家である橘氏の本拠地でした。藤原四兄弟は、神亀6年729年に長屋王の変で長屋王を自害に追い込みました。しかし、政界を牛耳っていた藤原四兄弟も天平9年737年の天然痘の大流行によって、次々と亡くなります。その後に国政を担ったのは、光明皇后に繋がる橘諸兄でした。橘諸兄は、唐から帰国した吉備真備や玄昉を重用したため、藤原氏の影響力は、更に弱まりました。太宰府へ左遷されたと感じた藤原広嗣(ひろつぐ)が、天平12年740年に藤原広嗣の乱を起こします。この乱は、一種のクーデターともとらえられます。政変を恐れてか、聖武天皇は、逃げるように平城京から天平12年740年に恭仁京、天平16年744年に難波京、天平17年745年に紫香楽宮と遷都を繰り返すことになりました。たったの3年間でしたが、この恭仁京時代には、天平13年741年に国分寺建立の詔がはっせられ、平城京から恭仁京へ移築された大極殿は、山背国国分寺の金堂として使われることになったのです。紫香楽宮で発せられた東大寺盧舎那仏像の造立の詔も、正式には、恭仁京が首都であった天平15年743年に出されたことになります。また、三世一身の法を改め、墾田永年私財法が制定されたのも、この時でした。紫香楽宮のある近江国は、藤原氏の本拠地です。聖武天皇の支持基盤が、どのように揺れ動いたのか想像されます。天平17年745年に彷徨五年が終わりを告げ、平城京へ還都しました。そして、天平18年746年に東大寺大仏建立が再開されるのです。続日本紀で展開される恭仁京は、未完成のまま廃都されますが、現存する国分寺の塔の礎石を見ると、七重塔だったようです。他の国分寺でも、本当に七重塔が建立されていたものか知りたくなりました。
初めての場所住んでる所から近くに、こんなきれいなコスモス畑が点在しているのは嬉しい。めちゃくちゃ秋を感じられ癒された。駐車場は山城国分寺跡地付近に5~6台止める無料の場所がある。また路上駐車は地元の方の生活道路のため迷惑駐車はやめた方がよい。
西暦740年から聖武天皇が5年間、都を置いた場所。疫病に悩まされ続けた聖武天皇は、東大寺の建立などの仏教の普及や遷都を繰り返すことで疫病からなんとか逃れようとしましたが、ここはその一環としての短命の都のあった場所。恭仁宮から都が離れた後、残存した建物は、山城国分寺として再利用されたそうです。一般には有名な場所ではありませんし、周りものどかな田園風景の場所ですが、日本の古代史においては、重要な場所だったのではと思います。
741年~746年、この地に都がありました。しかしながら、未だにそのほとんどが謎のベールに包まれています。幻の都「恭仁京」に思いを馳せて下さい。恭仁京はこの場所(瓶原~鹿背山東端)、木津川の対岸の京内橋辺りまでを左京、岡田國神社周辺(鹿背山西端~西木津)と高麗寺辺りを右京とする二つに別れた独特の配置の都でした。そのうち、天皇の宮城があったのがこの場所になります。厳密には山城国分寺の「塔院」に当たる場所です。国分寺の礎石以外、何一つ残っておらずあとは来た人の想像に任せるのみです。
| 名前 |
恭仁宮跡(山城国分寺跡) |
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| ジャンル |
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| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| HP |
https://www.city.kizugawa.lg.jp/index.cfm/8,28716,36,420,html |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
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かつて日本の都が置かれていたと伝わる恭仁京。季節ごとに表情を変えながら、訪れる人をやさしく迎えてくれる場所です。秋になると、一面に咲くコスモスが風に揺れて綺麗です。