三井農業祭で楽しい広場!
下高橋官衙遺跡の特徴
甘木鉄道の松崎駅から南東1.6kmほどの位置にあります。
官衙跡の東側には郡庁院跡、西側には正倉院跡があります。
広大な原っぱで凧揚げやサッカーが楽しめるスポットです。
三井農業祭があってました。バナナとミカンシクラメンを買ってきました。車を止める所がなくて待ちました。人も多かったです自衛隊の演奏もあってました。
国衙ー郡衙ー里の郡衙になるそうです。郡衙とは律令時代の役所の様な場所で宿泊施設や給食施設などもあったそうです。私はなぜか、奈良時代以前の道路、里から里や太宰府からここ迄の道はどんな感じだったのだろう?と考えてしまいました。何にも無い所ですが、ロマンを感じられます(笑)
良く整備された遺跡公園です☺️。欲を言えば、復元建物があったらいいなー😅。
地域の方々がトイレなどもいつも綺麗にしてくれてます。
お正月に立ち寄りました。何もないけどこの状態に維持管理するのは大変だろうなと思います。
下高橋官衙遺跡は、甘木鉄道の松崎駅の南東1.6lmほどにある官衙跡です。筑後平野の北部、宝満川の東側の南西へ眺望が開く場所にある、奈良時代(8世紀)の郡衙跡です。遺跡は大きく東西に並列した2つの方形区画に分けられます。東側の区画(馬屋元遺跡)では、約170m四方の方形の範囲を大小2重の溝で囲んだ中に、大規模な掘立柱建物が30棟以上発見されました。西側の区画(上野遺跡)では、南北170m以上、東西150mの長方形の範囲を大溝で囲んだ中に大規模な掘立柱建物が18棟以上ありました。そのうち13棟は高床式倉庫で当時の税である米を収納した正倉と考えられています。古代、この地域は筑後国御原郡に属しましたが、1967年(昭和42年)に発見された小郡官衙遺跡が御原郡衙に比定されています。小郡官衙遺跡は、8世紀中ごろになると、区画溝からは大量の鉄鏃が出土するなど、軍事的要素がうかがえます。このころ、下高橋官衙遺跡が成立したと考えられており、郡衙機能が小郡官衙遺跡から下高橋官衙遺跡に移転したことが推測されます。1998(平成10年)に国の史跡に指定されました。
歴史的評価は高いけど、見渡す限り原っぱで、なんだかなぁ〰️〰️
遺跡の東側が郡庁院跡、西側が米を納めた正倉院跡です。このポイントにはスコープがあり覗けば倉や人々がみえます。
ペーパーグライダーを飛ばすにピッタリ!!トイレはTOTOのウォシュレットだし、近くにローソンあり。
| 名前 |
下高橋官衙遺跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0942-77-0173 |
| HP | |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
|
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広大な土地に色々と趣向を凝らしていました。ここで正倉院の言葉を見るだけでもワクワクしました。以下引用させて頂きました。国史跡 下高橋官衙遺跡下高橋官衙遺跡は宝満川東岸の小高い丘の見晴らしがきく位置にあります。本遺跡は東に郡庁・曹司院(馬屋元遺跡)西に正倉院(上野遺跡)と考えられるものからなり、あわせて奈良時代の郡衙(郡役所)跡と考えられます。馬屋元遺跡は、東西175メートル、南北170メートルの方形区画を大小二重の溝が囲み、10棟以上の掘立柱建物が計画的に配置されており、「政庁」・「館」・「厨」などを含んだ「郡庁・曹司院」と考えられます。上野遺跡は、東西150メートル、南北175メートル以上の方形区画を大溝が囲み、掘立柱建物が10棟以上計画的に配置されています。掘立柱建物のうち13棟が総柱建物(高床式倉庫)で、当時の税である「米」を収納した「正倉院」と考えられます。また、両者の間には、現在の国道にあたる官道が、南北に延びているようです。この遺跡は、奈良時代の「御原郡」の領域内にあり、ここから北西3.5キロには御原郡衙推定値として「小郡官衙遺跡」があります。小郡官衙遺跡は7世紀後半から8世紀にかけてのもので、8世紀中頃になると多量の鉄の矢じりが出土するなど、軍事的性格を強め郡衙としての性格が変わったようです。一方、下高橋官衙遺跡では8世紀中頃の出土品が多いことから、この頃御原郡衙が、小郡官衙遺跡から下高橋官衙遺跡に移転した可能性が考えられています。この遺跡の調査では、地中レーダー探査で初めて掘立柱建物の柱穴が確認されるなど、画期的な成果もあります。(現在はこの遺跡を保護するため埋め戻し、下高橋官衙遺跡公園となっています。)指定年月日 平成10年1月16日所在地三井郡大刀洗町大字下高橋3356番地ほか。