筑前山家の神楽と共に。
山家宝満宮の特徴
階段を上った先に位置する本殿が印象的です。
山家岩戸神楽が観賞できる特別な場所です。
地元の方々に大切に守られる神社の雰囲気があります。
筑前山家の宝満宮、ここが宝満宮の元宮です。ご祭神は鴨玉依姫です。外に神功皇后と八幡神です。社殿に三叉槍があります。十字剣がデザイン化されたものです。軻遇突智(金山彦)の時から伝わるこの十字剣を、鴨玉依姫は誉田別に引継ぎました。その結果、誉田別は日本書紀で第15代応神天皇となり、正八幡u003d大幡主に次ぐ八幡神になりました。境内に、鴨玉依姫の配偶者 大山咋神を祀る山王神社があります。大山咋神は、京都では松尾大社、大津では日吉大社のご祭神です。故郷は、大分県宇佐市安心院町佐田です。大日孁貴命(卑弥呼)の石碑があります。長髄彦が神武天皇に反旗を翻した後、父親のスサノオは、お詫びの品として金山彦が打った草薙の剣を、若き佐田大神(大山咋神)に依頼して卑弥呼に届けさせました。宝満宮は境内を筑豊本線が通っています。北鎌倉の円覚寺を横切る横須賀線みたいな感じです。車両の数がだいぶ違いますが。※ 鴨玉依姫は宗像大社では三女神の湍津姫神(タギツヒメ)として中津宮に祀られています。
山家岩戸神楽を観ました。ベテランから中学生まで、舞われていました。伝統文化を引き継いでいく地元の方々に感動しました。
その昔 中国からこの地に使者来てねここはどこですか?と村人が答えました ここは やまえたい!なんと邪馬台国ですか?
郷社 寳滿宮 筑紫郡山家村大字山家字松原祭 神神功皇后,玉依姫命,應神天皇由 緒創立不詳,寳滿宮由来書に曰く,當社山家寳滿大神は勧請由来の義に在らす。化現より以来降臨の本津宮にて萬代不易の廟窟也と神俗共に申傳侍る。その後人皇三十七代孝徳天皇(附記孝徳天皇は代二十六代なり)大化二年丙牛歳神功皇后應神天皇を奉祭せりと云ふ。寳滿宮由来書に曰く,當社山家寳滿大神の由来を尋ね奉るに海神豊玉彦の御子玉依姫命と申奉る地神五代鸕鷀草葺不合尊の神功皇后也治世八十三萬六千四十二歳神武天皇を日向の國高千穂と云ふ所にて産み給ひ然後玉依姫命山家奇魂之地に入給ふと也。人皇十五代姫帝神功皇后(附記,神功皇后は天皇としては數え奉らず)三韓退治の時當社の御神出現あり吾は是神女なり名は豊姫命と申と宣玉ふ干珠滿珠を父豊玉彦に偕受け官軍を助け給う云々とあり。寳滿宮縁起に曰く,人皇九十代後宇多院(附記後宇多天皇は第九十一代なり)弘安四年に蒙古國入寇す時に山の形海水にうつる賊恐れて以て石ありすとす或は社中より光物飛散して賊船を漂泊はす或は賊皆神罰を蒙りて船中に悪疾を憂ひて迷動し終に陸に上る事を得ず滅ひうせにけりとなん一重に當社大神の神變なりと申傳へ侍る。同後宇多院の御宇に筑前守藤原經衝と云ふ人大なる旱にあへり雨を此の神に祈る時鏡を鑄て以て神前に掛け和歌を詠して曰く「雨降れと祈る印の有るならは水鏡とも思ふへきかは」と(此歌新續古今集に見えたり)茲に於て雨降ること大なりと云ふ。又源紹運願書を捧けて曰く大神出現於世慈念衆生猶如赤子威加四海徳播九州昔海外異類毒亂國經以大神之威神力數拒布之朝家信敬老中使降綸■(糸に字,字は上に横棒)尊國総社と云へり斯る尊き御神なるか故に國々所々に勧請して崇祭らずと云ふことなし云々。寳滿宮縁起一節に曰く,當社山家寳滿大神は蓋し竈門大神御一體なり即ち筑前國三笠郡山家庄の懸社として民生安堵の靈壇なり。承徳三年坤の歳夏四月中旬に新に御神託ましましけるにそ皆人心耳をすましたる其の年造營成就して神體遷宮祝儀を陳る中に御巫女にて託て宜く我異國より歸朝して此所に鎮座すること星霜既に一千四百餘年を經て今に至りて社頭七度の造營に及ふと雖も就中今度の造營を以て神慮納受ましますことまえまたゞひに過たり猶も神忠を盡さは宣敷長久を守らんとて神は昇らせ給ひしなりと。寳滿宮由来書に曰く。人皇五十四代仁明天皇の御宇承和七年四月中使を下し從五位上を授け給ふと續日本後紀に見えたり。人皇五十五代文徳天皇宇之御宇嘉祥三年十月勅使を下し筑前國縣夕社の神に正五位の下を授け給ふと文徳實録に見えたり。人皇五十六代清和天皇の御宇貞觀元年正月二十七日正四位の下を授け給ふと三代実録に見えたり。寳滿宮由来書の一節に曰く,人皇五十七代陽成天皇の御宇元慶三年六月八日勅使を下し正四位の上を授け給ふ。人皇七十三代堀河院嘉承元年十月三日當御神に正一位を授け給ふ勅使は太宰權帥大江朝臣匤房也和歌を詠して奉る。「白幣神乃威を增本津宮竈門の山もおなし和魂」幣帛を捧け此歌を奉納し給ふ于今御寳殿に有之とあり。天正十五年小早川隆景公當國筑前を領し給ふ時當社の寳滿宮は竈門山寳宮の本宮たるに依て神領一町五反の田地を寄附し給ふ)今に田の字に殘れり)然るに隆景公の用紙秀秋卿の時該社領は總て沒収せらるとあり。永正十八年辛巳大檀那筑紫小野守藤原朝臣滿門社殿造營すと棟札あり。承應二癸巳暦夏吉辰大檀那松原筑前守豐朝臣忠之社殿造營すとの棟札あり。天明乙巳年孟春三月吉日氏子中にて社殿を再興せりと云ふ棟札あり是れ則ち今の社殿なり十月十九日は恒例の大祭として神輿を笠懸の遙宮に渡御ありて神楽を奏し笠掛ひ式を執行し其日遷御なる此時伶人楽を奏して神輿に陪從す其お道路を音楽道と稱す此の外年中の祭數多し祠官神人二十五人ありて是れを執行せしも弘治三年七月九州の探題大友二十八代の後胤左衞門督義鎭の嫡子義統と申す者邪法に溺れ神社仏閣を沒倒せり。當社領も檢地檢斷せられし故祭禮も絕え果て又社家神人等は皆農人に下れりと云ふ。欽明天皇の御宇四月吉日選中申酉祭始と云々。西宮記に曰く延喜十五年四月中九日配祭始常云々。賀儀に葵祭有り此の祭に勅使下り奉幣を捧げ葵を以て祭らるゝ由所見有之云々。祭過きて其葵を大内に捧け奉る此の祭は大事なりとあり。明治五年十一月三日村社に列せらる。明治六年九月十日郷社に列せらる。例祭日六月十八日神饌幣帛料供進指定昭和六年十月三日主なる建造物神殿,拝殿,渡殿,参籠殿境内坪数一千八百四十五坪福岡県神社誌 中巻ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー大化2年\u003d646年 弘安4年\u003d1281年 承徳3年\u003d1099年承和7年\u003d840年 嘉祥3年\u003d850年 貞観元年\u003d859年元慶3年\u003d879年 嘉承元年\u003d1106年 天正15年\u003d1587年永正18年\u003d1521年 承応2年\u003d1653年 天明乙巳年\u003d天明5年\u003d1785年弘治3年\u003d1557年 延喜15年\u003d915年ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー筑紫野市指定無形民俗文化財(昭和五十一年四月十六日 指定)山家岩戸神楽(やまえいわとかぐら)山家岩戸神楽は、毎年十月十七日、山家宝満宮で奉納されます。昭和二十九年の復興当時の演目は,神供(じんぐ)・手草(たぐさ)・敷蒔(しきまき)・天神(てんじん)・両刀(りょうとう)・榊舞(さかきまい)・四神(ししん)・荒振神(あらぶるかみ)・事代(ことしろ)の九番でしたが、現在では問答鬼(もんどうき)が追加されています。特色は、筑紫の国号起源を伝える麁猛神(あらぶるかみ)をモデルにした演目があることです。神楽の起源については、元禄六年(一六九三)にすでに神楽殿が建立されていることから、さらに古くさかのぼるものと思われます。令和3年 筑紫野市教育委員会ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー幡柱:「嘉永二年巳酉季夏」1849年社頭狛犬:「石工 相園甚太郎」拝殿前狛犬:「上■郡木庭村 石工 堅村平■」拝殿内額:「八幡宮」「宝満宮」「神功皇后」境内社:「厳島神社」「天嫗社」「山王神社」「大日孁貴命」他。
地元の方が大切に守っている神社である空気がありました。小学校の隣からまっすぐ神社へとつながる道。その先にある鳥居と鎮守の森が出迎えてくれます。ちょうど地元の方がお掃除中。参道も境内も掃き清められていました。階段を昇った先には、立派な神楽殿。そして、本殿があります。きっとここは、地元の方からお宮さんとして親しまれているのだろうなと思いました。
神社正面は階段が多く、JR筑豊本線を股がって行きます、山家神楽で有名です。
名前 |
山家宝満宮 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
092-926-1459 |
住所 |
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HP |
https://www.city.chikushino.fukuoka.jp/uploaded/attachment/11273.pdf |
評価 |
4.3 |
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階段を上がった先に本殿が有ります。小さな神社に囲まれてました。