静寂の新緑に包まれた松峽八幡宮。
松峽八幡宮の特徴
八幡大明神や神功皇后が祭られた歴史的な神社です。
境内には美しい彫刻や迫力のある大楠があります。
神功皇后の伝承地としての由緒ある場所に位置しています。
社格は旧郷社。栗田及び久光など8か所の産土神。創建は、960年8月に左大臣藤原重直の建立とあります。また、本神社の祭神である神功皇后の伝承地であり、羽白熊鷲との戦いのために「松峡宮」を建て、戦地におもむき勝利し「心安し」と言ったことにちなんでこの地を夜須と呼ぶようになったと伝えられています。
松峽八幡宮です。祭神は八幡大神、神功皇后、住吉大神です。神社2の鳥居付近にある案内板には『天徳4年(960)年8月に左大臣藤原重直(しげなお)が社(やしろ)を建立し、佐々木左近重綱(さこんしげつな)と横山左衛門重貞(さえもんしげさだ)の両名が宮司に任命され、神領(じんりょう)として500町をもらった記録があります。また、本神社の祭神である神功皇后の伝承地であり、羽白熊鷲との戦いのために「松峡宮」を建て、戦に赴き、戦に勝利した皇后が「心安し」といったことにちなんでこの地方を夜須と呼ぶようになったと伝えられています。』と書かれていました。ここの神社を建立し、神社の裏手にある山に登った神功皇后は、そこで地形を見渡して羽白熊鷲の討伐の作戦を立てたことから、その山の名前を目配山(めくばりやま)というようになったとの伝承もあるようです。さらにここに帰還した際、「羽白熊鷲を討ち取り、心安らかになりました」と言ったので、この地は「夜須」と名付けられたそうです。夜須の地名は今も残っています。神社の拝殿上部には、立派な龍の彫刻があります。拝殿の中には、奉納された絵馬が何枚か残っています。この神社は集落に住む方々に、大切に守られていると伝わってきます。
筑前戦国史に書かれている御笠郡の地名の由来になった故事伝承(神功皇后が香椎宮から松峡宮に移る途中、突風が起こって御笠が吹き落とされた)の松峡宮は此処ではないかと思い参拝しました。駐車場が無いので大変でしたが、とても良い神社でした。
ご祭神は、八幡大明神、神功皇后、住吉大明神の三柱です。創建は、960年8月に左大臣藤原重直の建立とあります。また、本神社の祭神である神功皇后の伝承地であり、羽白熊鷲との戦いのために「松峡宮」を建て、戦地におもむき勝利し「心安し」と言ったことにちなんでこの地を夜須と呼ぶようになったと伝えられています。またここには、栗田八幡宮の大樟があり、樹齢千年を越えるといわれ、江戸時代貝原益軒が五囲みあると、驚嘆したそうです。
「まつお」八幡宮には駐車場がありませんが鳥居近くにスペースを見つけてお詣りしました急な階段の上には綺麗にお手入れされた境内がありますし、手水も使えます(センサーライト付き)拝殿の彫刻が美しく、大楠も迫力があります。
神功皇后伝承地武器を研いだ砥上神社と熊鷲本拠地の秋月城址付近の中間に位置するが、目配山(この山名は皇后が目配りした事に所縁)があり直接的には視界にはいらないこの地に宮を定めたのだろう。御祭神八幡大神・神功皇后・住吉大神参拝したのがそういう時期であったが、とにかく蝉が尋常じゃないくらい元気な杜に鎮座していた。数自体が多いのだろうがあの蝉達の鳴き声からは生命感が溢れていてうるさいを超越していたな。特別な樹液でも食しているのだろうか。他にも根本が空洞化してそこから樫が自生している大楠(これ蝉がたべたんじゃないの?と思うくらい)や狛犬顔のしゃちほこ等あり一度訪れてみると良いでしょう。
神功皇后の遠征の折りに行宮とされた松峡宮に推定されている。
静かな新緑に立つ神社。(原文)Shrine standing in quiet fresh green.
Shrine standing in quiet fresh green.
| 名前 |
松峽八幡宮 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| HP | |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
県道597号から朝倉街道に入り、朝倉方面に進むと左手奥の山際に集落が見える。神社は集落の入口の山際に鎮座する。第一鳥居を過ぎると山際に第二鳥居がある。その先150段位の石段を上ると御社となる。上り終えた階段の傍には約千年を超えるクスノキがある。神社の古さを感じさせるスギノキ、クスノキ、ヒノキ、イチョウ、イチイガシ等多くの大木があるが、千年を超える大木は珍しい。拝殿の前、狛犬の後ろに燭台か杯を模した奉納品があるが余り見た経験がなく珍しく感じた。奉納絵の多さも感心した。本殿の前にある対の随身像(矢大臣、右大臣と思うが)には余りこの位置で見ることがないので新鮮に思えた。