古の猫城跡、月瀬八幡宮の厳粛。
月瀬八幡宮の特徴
美しい御朱印がいただける、歴史ある中間市の神社です。
中世の猫城址に位置し、神社と城跡の風景が楽しめます。
宮司のオリジナル絵馬や干支の大きな絵馬が魅力的な神社です。
丘高い場所に鎮座する八幡宮。鳥居が2つ並んでいて、初見では小さなお宮が本殿と勘違いしてしまいます。室町時代の猫城跡らしいですが、参拝したときの印象はそこまで感じられません。本殿の屋根横は龍の彫刻があり力強い印象。境内はとても清掃が行き届いていました。写真におさめてませんが、階段の傾斜がかなり急なため、行きの登りはいいとして、帰りの下りは若干身が引く感じ。御朱印は惣社宮でもらえます。
☺️福岡県中間市にある神社です。🏯猫城🏯の城内にあります。城内には高倉健さんが奉納した猫城址の石碑があります。本殿にはジュリーデザイナーの千手あづささんが奉納した✨きらきらの👩❤️👩カップルさんさん✨のがあります。合格祈願👏猫招き👏猫祓い👏に参拝してくだされ。
綺麗な厳かな神社です。駐車場も有り安心してお参りができました。
歴史的に興味の在る神社。鞍手町と中間市の境に位置する😺 猫城 🏯■猫城をめぐる戦い(宗像と岡垣の境369メートルの城山) 【現在 月瀬八幡宮】に本拠を置いていた宗像氏が勢力を強め、遠賀川より西の方を支配下に治めるようになりました。天正6年(1578年)には、家臣の吉田倫行に雑兵150名を付けて守らせていました。天正8年(1580年)、糟屋郡にあります立花城の戸次道雪の計略【その計略とは】『直方より毛利が攻めれば、きっと宗像より応援が来るはずだから、その隙に守りが手薄になった宗像を攻め落とそうとの打ち合わせ』が出来ていたのに、伝達ミスがありきちんと伝わらず、その日、立花城の戸次道雪は全然動かなかった、とのことであります。作戦失敗と言う所でしょうか。❓高取城(直方市の福知山の下の方の山)の城主毛利鎮実の大軍1000名が押し寄せ、乗っ取らんものと猫城に迫りました。城を守る吉田倫行は、かねがね宗像氏貞より【旗下の城に、もしの事があったら、合図に(のろし)を上げて本拠の城山(蔦ヶ岳)に急を告げよ】との事であったので、すぐに合図の(のろし)を上げ応援を頼みました。城山より駆けつけた宗像本勢1500名と水位の上がった許斐川を挟んで両軍激しい戦いでした。猫城側も援軍と力をあわせ力戦したので、毛利鎮実の軍は、さんざんに打ち破られ引き返したとの事であります。⬛この猫城は、《行き山》と言い伝えられている。それは敵が攻め登れば高くなり、城より攻め下りる時は低くなる。 ❝まるで猫のようだと言い伝えが有る❞猫を真横から見ると、頭があり身体を丸めた様子です。🅿️有り 階段80段神社前の道は赤間街道の道筋為道幅が狭いです。(この街道を進むと長崎街道と合流する直方市の植木町へそして木屋瀬へ)以上長くなりました。
境内と道を挟んだ反対側に駐車場があります。橋を渡って少し階段を昇って行くと本殿に辿り着きます。手入れもされていて落ち着いて参拝出来ました。宮司さんとお話をさせて頂くと、絵を書くのが好きで、境内に飾られている大きな絵馬だけでなく、小さいな絵馬も宮司さんが手書きで描かれているとの事でした。社務所で惣宮社、梅安天満宮の御朱印も書いて頂きました。不在の時でも書き置きが用意されていました。ありがとうございました。
令和元年12月30日参拝 御朱印頂きました。こちらは近くに有る惣社宮と梅安天満宮(書き置き)も頂けます。この日は運が良く、宮司さんが居まして三社記帳して頂けました。駐車場自体は広いのですが、幹線道路からが狭いので注意!
2019年 10月参拝。前に来たときは、分からなかった社務所で今回は、御朱印を 戴きに来ました🎵インターホンで 出てきて下さり 丁寧に接して下さいました❗こちらは、3社ぶん 戴けます🎵
駐車場も有り便利です。本殿は急な階段の上に有りますが、立派な社務所春下に有ります。御朱印は月瀬八幡宮、惣社宮、梅安天満宮の三社が貰えます。
令和元年5月4日参拝御朱印あり(惣社宮、梅安天満宮、月瀬八幡宮)祭神:品陀和氣命、息長足媛命、比咩大神旧社格:村社寛永十五年(1638年)に筑前国2代藩主黒田忠之公が猫城址に宇佐八幡宮の御分霊を祭って創建された神社。社名は元々は猫城八幡宮と称されていたがその後月瀬神社となり現在は月瀬八幡宮と称されている。御朱印は宮司不在の際は書置きを授与していただける。
| 名前 |
月瀬八幡宮 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
093-244-1824 |
| HP | |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
|
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旧社格は村社。御祭神は、応神天皇・神功皇后・宗像三女神・菅原道真公。寛永15年(1638年)に創建。筑前藩主 黒田忠之公の命で、戦国時代に猫城と呼ばれる城があった場所に社殿を造営し、宇佐八幡宮より勧請したのが始まりです。当初は猫城八幡宮と呼んでいたそうですが、宇佐八幡宮の境内を流れる月瀬川に因んで月瀬八幡宮と称するようになったそうです。太平洋戦争の終戦後、梅園山にあった天満宮をこちらに遷座・合祀し、今に至ります。麓の入口付近に恵比寿宮、参道の階段途中に稲荷神社、境内にも摂社がいくつかあり共に祀られています。