信貴山城で歴史を感じる。
信貴山城址の特徴
信貴山城跡では歴史を感じられる感動を体験できます。
遺構や曲輪群に囲まれた壮大な城跡を散策できます。
松永屋敷の整備された説明板を見学し珍しい発見があります。
夏の18時以降、駐車場が無料になってから登城しました。松永久秀で有名な信貴山城は、大観光地の奥手の山にあり、結構な階段を登っていくと、南側の本丸郭跡に辿り着きます。そこに石碑と説明板が建っています。キツいけど階段になっているお城はとても登りやすく、夕方でしたが明かりを灯してくれていました。そこから北側に広がる縄張りに、松永久秀屋敷跡などがあり、遺構もかなり残っているそうですが、もう暗くなっていて、そこまでは行くことができませんでした。帰り際には、浴衣を着た外国人とバラバラと10人くらいすれ違いました。コト消費インバウンド修行体験宿泊で盛況なのはいいことです。
松永弾正久秀が、信長に二度目(説によりては3度目)の反旗を翻し、信長の説得にも応ぜず平蜘蛛の茶釜と共に自爆したという、有名な信貴山城の跡を訪れた。車は、朝護孫子寺[ちょうごそんしじ]の有料駐車場(1日500円)に停めて、本堂にお参りをし、多宝堂の左脇の空鉢護法[くうはつごほう]参詣道を登って、天守跡(本丸跡)へ来た。実は現在天守跡には空鉢護法堂があり、寺の関係者も昼間は常駐しているようで、道は急なところもあり疲れるが、整備されていて登り易い。時間は多宝堂から20分位掛かったか。尚、この天守跡に信貴山城址碑があり、ここに奇麗なトイレもある。松永久秀は天守で自爆?(自刃?)とあるのだから、ここで亡くなったのか。次に、ここから北の方へ降って行き、立入屋敷[たてりやしき]を経由して松永屋敷跡へ行った。松永屋敷跡はとにかく広かった。尾根に沿って段々に5つの曲輪が連なっている。曲輪間には仮設の階段が設置されていて、それなりに史跡として整備されているし、城跡説明看板等も適宜あり、見学し易かった。5つの曲輪や松永屋敷の虎口等もじっくり見学すると、1時間位は掛かる。天守跡からはちょっと離れていて、帰りは登りになるのでちょっと辛いが、ここを見学しないと松永久秀の信貴山城を見学したことにはならないので、ぜひ訪れることをお奨めする。尚、帰り掛けに雌嶽曲輪に足を延ばしたが、こちらは細長い平坦地に樹木が林立しているだけで、省いても宜しいかと思う。今回、駐車場から登って、城跡等を巡って、また駐車場まで降ってくるのに、3時間位掛かったが、後悔はない。さて、信貴山城であるが、朝護孫子寺のチラシによると、最初天智天皇の御代に築城され、中世には大塔宮護良親王[だいとうのみやもりながしんのう]が鎌倉幕府軍への対抗拠点とし、楠木正成も一時この城に拠ったという。大変興味が湧くが、本格的な城郭が築かれたのは、天文5(1536)年頃で、河内守護職畠山氏の有力家臣、木沢長政によってである。その後、永禄2(1559)年三好長慶家臣松永久秀が大和に入国すると、多聞山城と共に大規模な改修をした。しかし、永禄11(1568)年には筒井順慶と三好三人衆連合軍により落城したが、久秀は上洛を果たした織田信長にいち早く接近し、援軍を得て直ぐさま信貴山城を奪還した。ところが、元亀2(1571)年頃より久秀は反信長包囲網の厳しい情勢を鑑み、信長を離れ反旗を翻した。しかし、元亀4(1573)年春信玄が上洛(?)途上に病にかかり駒場で没すると、天正元(1573)年暮れにはコロリと信長に観念し、多聞山城を信長に差し出し、許しを得て信貴山城へ退いた。ところが、またである。天正4(1576)年信長の第2回石山攻めで大和守護である塙[はなわ、又は、ばん]直政(原田直政)が討死すると、大和の覇を競ってきた筒井順慶が信長より大和守護に任じられ、大和支配を狙っていた久秀は信長に激怒し不信を抱いた。翌天正5(1577)年、越後の上杉謙信が手取川の戦いで柴田勝家ら信長軍を破ると、再び(三度という説もある)久秀は石山攻めの天王寺砦から兵を引き揚げ、信長に反旗を翻し、信貴山城に籠った。すると、信長は久秀がまだ利用できると思ったのか、久秀と親交のある堺衆松井有閑を信貴山城に派遣し翻意を促したが、無駄だったようである。信長は、信貴山城攻めの総大将に嫡男信忠を任じ、総勢4万を超える軍勢を差し向けた。織田軍の猛攻が始まると久秀は観念し本丸(天守)に退き、平蜘蛛の茶釜など和漢の名器と共に爆死(?)した。享年68歳である。この時、信貴山城も廃城となった。《2024.8.28訪問》
信貴山城は標高433m(比高380m)の信貴山に築かれた城で乱世の梟雄と言われた松永久秀の居城でした。車で訪れるなら朝護孫子寺の駐車場に停め、そこから参道を登るルートが便利だと思います。そこからなら比高は約140m程度です。信貴山城の城域はたいへん広く、今も複数の尾根筋に多くの郭を確認することができます。往時は広範囲に郭を張り巡らせた広大な城であり大和最大級だったそうです。しかし、現在は山頂の空鉢護法堂あたりまでは完全に寺院の雰囲気で山城らしさは薄く、その先は郭が連続し山城らしさは感じますが遺構は郭と堀切程度でほぼ何も残っていません。元々ほぼ土の城で石垣などは少なかったようです。信貴山城は楠木正成による築城とも伝わっていますが、本格的に整備したのは木沢長政で長政敗死後に松永久秀が入り、再整理したようです。松永久秀が織田信長に反旗を翻し、敗れた後に廃城となったようです。信貴山城は城主を含め有名な城ですが、遺構は少なく、山城らしさもそこそこなので、わざわざ訪れる価値があるかといえば微妙です。朝護孫子寺の観光とセットで回るのが良いかと思います。
生駒山地の南端の437メートルの峰に築かれた巨大城郭で楠木正成が築城、松永久永が大和支配の拠点とした歴史上の重要史跡です。現在は朝護孫子寺の空鉢護法堂が本丸跡に建立され奈良盆地を見下ろす景観地となっています。北に下った所にある松永屋敷跡も遺構が良く残っています。
やはり長い人間の歴史を考えさせられ感動をしました!本当に、ありがとうございます!
城跡まで登るのはきついかもしれません。
登って登っていくと信貴山城跡に。ここがボンバー久秀の夢の跡・・・しかし、よくこんなところに城作ったよなぁ・・・
標高437m、南北約700m 東西約550mで 築城者は楠木正成🏹との説がある...と説明板に書かれてた🤭ネットで検索すれば案内はモチロン縄張図まで てんこ盛りに出てくる🌋ざっと散策するだけでも数えきれない曲輪群に土塁♪堀切♪切岸♪などなど たっっっぷり遺構が見れた👍️特に松永屋敷が綺麗に整備されてて新しめの説明板も建ってる頂上の雄嶽に 信長とお市の名前を見つけてチョット嬉しい🕺眺めも良かった(*´▽`*)ゞ朝イチのお散歩🚶がてらに歩くにはあまりにも大きすぎるトコ デス(;^_^A
道を間違えながら、登城(苦笑)城址からの眺めは素晴らしく、見えていたものは違えど、松永久秀公が観た景色をイメージしなから…汗を拭う。
| 名前 |
信貴山城址 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0745-72-2516 |
| HP |
https://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/naranoshiro/shigisanjo/ |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
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初めて登りました。道中は緑に生い茂ってるので空気も良いです。