威風堂々!
高杉晋作決起の像の特徴
高杉晋作の回天義挙を具体的に表現した石像がある場所です。
初代総理大臣伊藤博文が称賛した威風堂々とした石像です。
長洲藩の歴史的遺産を感じられる騎馬像が魅力です。
中々、男前の高杉晋作です。生まれは萩市ですが、高杉晋作は下関市にゆかりがあります。この寺は三条実美(さんじょうさねとみ)はじめ五卿の仮泊所であり、高杉晋作挙兵の場所でもあります。因みに、下関戦争後、高杉晋作を隊長とする、奇兵隊も結成されました。この功山寺に、尊王攘夷堂がありますが、高杉晋作挙兵の地だからこそ、尊王攘夷堂をこの場所に相応しいと思ってたらしく、案の定、尊王攘夷堂がこの寺院にあります。長門尊王攘夷堂を建設したのは、昭和8年頃です。桂弥一が建設にこぎつけて、桂弥一が48歳の時でした。資金集めの為に、あちらこちらへと行き、自分の財産を擲って、ついに完成させた建造物が、尊王攘夷堂です。因みに、高杉晋作といえば、子どもの頃から体が病弱で、最後は肺を悪くして亡くなったのだとか。幾ら長州藩の為とはいえ、奇兵隊迄、下関の白石正一郎宅で結成して頑張ったと思います。長州や下関の為にも頑張った。
明治維新の志士のなかで、人気の高い「高杉晋作」の像です。銅像のうしろに解説碑があるのですが、消えかけて読みにくいです。せっかくなので、ここにうつしておきます。高杉晋作回天義挙銅像 解説碑嘉永6年(1853年)米艦4隻 浦賀に来航して徳川三百年鎖国の夢破れ、国論は支離滅裂、我長州藩もまたその帰結を知りません。国外では欧米諸国が競って全アジアを制圧し、最後の塁である我国に迫って来つつあります。時は元治元年(1864年)12月15日夜半、高杉先生は遂に意を決して四面の楚歌を排し、この地この処に義挙の一ノ鞭を奮い、藩内の俗論党を倒して藩論を尊皇討幕に統一し、薩・長・土の盟約を結び、第二征長幕軍を長州藩の四境に迎え討って皆これを敗退させ、遂に内は王政を復古して明朗闊達な大和民族本然の姿に返し、外は四海を圧する明治維新(1868年)の基を作られました。明治維新発祥の地、ここ功山寺境内にこの度 回天義挙像の建設成り、高杉先生当時の姿そのままに只今眼前にあります。この誇りを吾等永久に語り伝え、言い伝えて子々孫々訓育の糧と致さんと切に願うものであります。昭和47年(1972年)12月15日長州博物館 友の会 会長。
功山寺決起は高杉晋作が発起人となり、長州藩内で決起したクーデターです。当初、決起に同調したのは、わずか80人と言われています。 この決起がなければ、明治維新は遅れ、それに伴って日本の近代化は大きく遅れたと言われています。銅像は威風堂々とした立派なものになります。歴史を変えようとする高杉晋作の気概が伝わってきます。
「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し」と、初代総理大臣伊藤博文が評したように、威風堂々たる石像です。
威風堂々とした地元の英雄です。
高杉晋作の回天義挙の際の姿を石像にしたものと伝えられている。彼のこの世の中を変えて見せようとする気概が伝わってくる。
台座には晋作を尊敬していた岸信介の書で「高杉晋作回天義挙像」と記されている。台座碑文「一鞭回天 明治維新 宇内輝く 嗚呼鬼神東行先生」
立派な騎馬像です。
回天義挙の場所。
| 名前 |
高杉晋作決起の像 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
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功山寺での挙兵の銅像です。まさに歴史が動いた瞬間です。