名越太郎邦時の供養塚に。
旧東海道 鎧塚 (日坂)の特徴
中先代の乱で討たれた武将名越太郎邦時の供養地です。
鎌倉幕府滅亡の歴史が感じられる場所となっています。
名越太郎邦時の死骸の埋葬に関連する史跡です。
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鎌倉幕府滅亡後、幕府再興を狙った中先代の乱の際に、この地で討たれた鎌倉方の武将名越太郎邦時を供養するための塚です。
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| 名前 |
旧東海道 鎧塚 (日坂) |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[土日月火水木金] 24時間営業 |
| 評価 |
3.4 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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名越太郎邦時の死骸を埋めたとの記述があります。首はどこに行ったのでしょう。調べても情報はないようです。討った今川氏は初めて得た大きな功績を示すために、この塚を立てたようです。【参考 鎧塚 遠江史蹟瑣談 1952 年】日坂より小夜(さよ)の中山に向い旧東海道を登りつめたる処の右手の道端にある。樹木鬱蒼として弧丘を覆っている。❶難太平記 記述式部大輔入道殿(号三郎頼国) 中先代合戦の時、街道の大将として京都より下向。遠江国佐夜中山にて、前代の大将、名越といふものを打ち取りき。❷今川記 記述式部大輔今川入頼国 は 等持院殿(足利尊氏) 中先代御退治の時、街道の大将にて同時の合戦に遠江国佐夜の中山にて中先代の大将 名越太郎 というものを打ち捕らえる。❸掛川誌乙篇 昭和3年 記述鎧塚駅路南側林中にあり由来つたわらず。建武2年(1335年)8月北条高時の餘類(親族)、名越太郎邦時兵を起こして京に攻めあがらんとして小夜中山(さよなかやま)にて、今川式部大輔頼国 に討たれる。又享徳5年 今川義忠の一族 堀越陸奥守貞延 佐夜の山口に於いて横地勝田の為に討たれ、ともに戦死するもの数輩(かなりのかず)ありざれども、鎧塚は名越太郎が死骸を埋めたる処ならん。今川頼国 名越太郎邦時を討て初め本州に於いて大に功をたてたれば、塚を築いて其標とせしものなるべし。