歴史を感じる平尾亥開公園で。
平尾亥開公園(ひらおいびらきこうえん)の南西、大阪市環境局大正工場の北側にかつてあった「大阪俘虜収容所(おおさかふりょしゅうようじょ)」について書かれた説明板です。第一次世界大戦当時、中国にいたドイツ兵捕虜を収容する施設が日本各地に設置され、そのひとつが大阪俘虜収容所で、それ以前は明治時代に発生した大火事(北の大火:天満焼け)で被災した市民の収容施設としても使われていたのだそうです。俘虜(捕虜)収容所と聞くと刑務所のような環境を想像しますが、こちらに収容されていた俘虜の方たちは、朝夕の点呼の他は労働を強要されることもなく、スポーツや読書、音楽の演奏などを楽しまれていたのだそうです。
名前 |
「平尾亥開公園と大阪俘虜収容所」説明板 |
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ジャンル |
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住所 |
〒551-0012 大阪府大阪市大正区平尾1丁目11 亥開公園(北 |
評価 |
4.0 |
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この辺りは平尾新田と呼ばれる稲作地域であった。大坂江戸堀に住む平尾与左衛門が新田開発をした。検地を受けたのが明和8年(1771年)のことであった。伊勢参りが特に宇治周辺で大流行した年であった。検地を受けた水田の中に「亥(い)」の年に開発された場所を「亥開」と呼んだ。この地名からこの公園を平尾亥開公園と命名した。この公園の東側で木津川に面したところ(南恩加島1丁目)に明治41年(1908年)にペスト患者隔離所が新設された。明治42年(1909年)に北区の天満を火元とする大火事が起こり、罹災した市民約2万2千人を収容した。小学校も開設した。次はその後の話である。第一次世界大戦の結果、大正3年(1914年)11月・・・寒い季節やなあ・・・中国にいたドイツ兵などの捕虜収容所が、日本各地に設置された。大阪ではこの施設が「大阪俘虜収容所」と名付けられて使用された。軍人など760名。捕虜は収容所にあっては、毎日の生活として朝夕の2度の点呼を受ける以外の労働は特になく、読書・絵画・演劇・音楽・テニス・フットボール・器械体操などの娯楽をすることが許されていた。大正6年(1917年)2月に、俘虜収容所は閉鎖されて、広島県の似島に移転した。その時の収容施設でのことから、ドイツと日本の良い関係が出来たのではないだろうか。この説明板にはドイツ国旗が描かれている。日本の国旗が描かれるべきであるが、そうはいかないのが説明板を立てた時期の大阪市の状況である。開放後も日本に永住を希望し留まった者も少なからず、神戸のバウムクーヘン製造で有名な、カール・ユーハイムさんもその一人。ユーハイムは洋菓子の会社になっている。Blue-life君はこの会社のお菓子を結婚式の引き出物にした。この史跡にも、ドイツ語での解説があるのが、そんな友好的な関係の印である。そんなドイツ×大正区の関係について、詳しく研究された解説書が区役所にあり閲覧可能。「大阪俘虜収容所の研究 -大正区にあった第一次大戦下のドイツ兵収容所-」