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| 名前 |
菅楯彦 筆塚 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
06-6771-0066 |
| HP | |
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
|
菅楯彦(明治11年~昭和38年(1878年~1963年)、すが・たてひこ)は、鳥取県で生まれた。父は元倉吉藩士の日本画家。最初、父に日本画を学んだが、独学で絵画の研究をした。明治32年(1899年)から2年ほど、漢学者・藤田軌達の紹介で神戸新聞社で挿絵画家(月給30円)として働いた。明治34年(1901年)から2年間、大阪陸軍幼年学校の歴史科画事嘱託となり、歴史と美術を教え、ここで松原三五郎から洋画法を学んでいる。西洋絵画の技法を取り込むきっかけとなる。明治35年(1902年)に画号を菅楯彦とした。楯彦とは、国を男子という意味であった。大正6年(1917年)、富田屋の芸妓・八千代(遠藤美紀子)と結婚する。八千代は当時、東京の萬龍、京都の千賀勇らと合わせて日本三名妓と評された絶大な人気を誇る美人であった。馴れ初めは、明治天皇崩御に伴う休業時に、絵に親しんだ富田屋の主人が芸妓に絵を習わせようと、親しくしていた楯彦を呼んだのがきっかけだった。そのうちに、熱心に教えを乞うのは八千代ひとりとなった。八千代は慣れない家事のかたわら、楯彦に付いて有職故実(皇族・公家の生活のルール)や書画、和歌を学んだ。絶大な人気を誇った名芸妓と、大阪の中堅画家に過ぎなかった楯彦との結婚は大きな話題となった。それもきっかけとなり、楯彦の絵が売れるようになった。八千代は大正13年(1924年)、腎炎により37歳で亡くなる。楯彦の悲しみは大きかったが、妻の死が画業を飛躍させる契機になった。大阪を愛して自らを「浪速御民(なにわみたみ)」と標榜し、大阪の風物を描いた。そうすると、具体的な題材として、四天王寺を舞台としてお詣り、祭り、縁日などを描くことになる。宝物館で展示を行うことがあるが、菅の作品が登場する機会は多い。また、大阪市立美術館には、多くの作品が保存されている。彼の晩年、大阪画壇の重鎮であった。四天王寺は彼の作品として、「龍頭鷁首図屏風」を所有している。