飯島三郎右衛門の歴史を感じて。
飯島三郎右衛門の墓の特徴
戦国武将・飯島三郎右衛門の墓が存在しています。
近鉄若江岩田駅から商店街を南下するアクセスが便利です。
小さな石垣に囲まれた歴史的な雰囲気の墓所です。
近鉄若江岩田駅から、商店街を少し南下すれば道は二股に分かれるが、その直前左側に小さな石垣に囲まれた小さな墓に気づく。夏の陣で戦死した木村重成の家来、飯島三郎右衛門の墓だ。なんでこんなところにと思うかもしれないが、ここはかってあった若江堤上の北の端に当たる。さっきの二股東側は、今は道路になっているがこの道路そのものが若江堤に当たる。二股西側は河内街道だ。今はその痕跡のひとつもないが、この堤を挟んで木村隊は藤堂高虎隊や井伊直孝隊と激戦を交わした。若江堤の南側で、槍で突かれ重傷を負った飯島は、この堤の北の端で戦死する。この前をいつ通過しても花がきれているのを見たことがない。子孫の方々や、道行く優しき人が花を添えてくれているのだろう。木村重成や飯島三郎右衛門の死闘を、今の世まで誰も忘れていない証拠だと思う。
徐に現れたお墓に、過去に偉人を崇拝する地元の人達を想いました。
名前 |
飯島三郎右衛門の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
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戦国の世に弓術で世に名の知れた飯島三郎右衛門の墓がここにあります。正に、一芸は身を助く、また、世のための優れた術を体現した人物の史跡です。ちなみに、写真は2005年に撮影した様子です。今は、植栽がありません。喧噪を遮り、西日が暑かろうとの愛情からのことだったのかもしれませんね。平成9年3月、東大阪市・岩田町文化財保存会によって立てられた、その謂われの案内から、文字を起こしてご紹介します。【飯島三郎右衛門の墓】飯島三郎右衛門は、市内高井田村の生まれで、幼小の頃より弓道が得意で成人して、戦国の武将織田信長に仕えました。信長の死後、豊臣秀吉に仕え、秀吉死後は、その子秀頼に仕えました。元和元年(1615)5月「大坂夏の陣」の若江・八尾付近の戦いで、木村長門守重成に属して徳川軍と戦い、相手方の武将山口和泉守重信に槍で突かれ、この地で戦死しました。重成、重信ともに戦死するという壮烈な戦いであったといいます。三郎右衛門の長男三吉は殉死を遂げ、妻及び母も自刃したが、乳母に助けられた次男が成人した後、この地と高井田に父の墳墓を建てたと伝えられています。また、三郎右衛門戦死のこの地は、沼地で大小の用水の集合地であり、若江村と岩田村を結ぶ「雁戸樋橋(かりんとひばし)」という細い橋がありましたが、今も道路の下には昔と変わることなく、楠根川に注ぐ水が流れています。