人間魚雷回天の記憶を訪ねて。
回天記念館の特徴
人間魚雷回天の訓練基地跡に位置する記念館です。
遺書や遺品の展示を通じ、平和の意味を考えさせられます。
徳山港からのフェリーで数分でアクセス可能な立地です。
人間魚雷回天の訓練基地があった大津島に所在する記念館です。回天で出撃した特攻隊員の遺書や軍服などを展示しています。来館した際に、社会見学中の高校生の一団が慰霊碑などを清掃している姿に心暖まりました。大戦末期に常軌を逸した人間魚雷で出撃し、祖国の安泰を願って命を捧げた若者達の軌跡を今後も長く語り継いで欲しいと願います。
以前から絶対に行くと決めていました。私は戦争遺構を巡る時は夏と決めています。この日も2022年8月18日に行きました。天気に恵まれすごく暑かったですがこの島に一歩踏み込んだ瞬間から気持ちが切り替わるのがわかりました。私たちがこうしている瞬間もそして日々何気なく過ごしている時間も決して当たり前ではなく、戦争に関わった人達の命や想いが創り上げたものなんだと本当に想い知らされました。 感謝しかないです。
やっと来ることが出来ました。感慨深いものがあります。自然と涙が出てきます。鐘を撞くことが出来ます。資料も買いました。トンネル抜けた所の施設跡周りの海がきれいでした。回天を知った時は、かなりの衝撃でした。戦争は本当に無くなって欲しいです。お祈り申し上げます。
【平和の意味を考えさせられる】漫画「特攻の島」を読み、是非舞台となった現地を訪れたいと思い来島。二十代で国家の礎となられた英霊の遺書等を拝見し、その心意気等に深く感銘しました。特攻兵器は非人道的であることを承知のうえで若い自分たちが何とかしなければならない・・・そんな純然たる激しい想いが胸に痛いほど届きました。是非少しでも多くの若い方にも見ていただきたいと思います。館内整備状況良好。周辺の施設も近くにあり、効率よく施設等を廻ることができます。来てよかったです。
島内の回天の遺構を巡るにあたって、遠方からの見学の場合は船の時間などを考慮すると徳山7:40のフェリー便を利用するのが良いと思います。(車は徳山港に停めておく)ペース配分を考えると帰りは11:07の船で帰れます。艦内展示物は遺書や個人が特定できる物の撮影は不可です。回天の遺構を巡るに当たり、山口県では阿多田交流館。大分県では回天大神訓練基地跡を巡るのも良いかと。
11月の平日に行きました。さほど広くない平屋の建物内をぐるっと一周するだけの規模ですが、じっくり展示を見ると30〜40分くらいかかります。フェリー乗り場から10分ほど歩きますし、訓練基地跡も見るとそれなりに時間がかかります。徳山港を9時半に出るフェリーで来た場合、11時過ぎのフェリーを逃すと次は13時になってしまいますが、時間を気にして見るのが苦手な方は13時のフェリーでゆっくり帰りましょう。島のふれあいセンターで数百円で自転車を借りられるので海辺をサイクリング出来ます。(定休日があるのと冬季期間はお休みらしいので下調べ必須です。それより少し費用は掛かりますが徳山駅の駅レンタカーでもレンタサイクルしています。)回天記念館、ぜひ多くの方に訪れて知って欲しい施設です。島には買い物できるお店も見当たらないのでお昼ごはんと飲み物持参で訪れました。海を見ながらお昼食べるのも良いものです。人懐こいネコもいますよ。それなりに歩くので雨の日や夏は大変かもしれません。
展示物も多く一度は訪問して、色々と感じて頂きたい。
自分の命をかけてこの時代を過ごした方たちの遺品、遺書が展示されていて読みやすいのでその時の心情を想像したり寄り添えたりまた、考えさせられたり展示そのものは少ないのですがここで何が行われていたか初めて知ることができました知覧などよく知られた場所以外にもこのような場所がある知らなくてはいけませんねここに来るためのアクセスについて徳島港から船でしか来れませんまた、その船も何本もなく時間設定して島へ渡らないと無駄な時間を過ごしてしまいます平日に来てしまうと食堂は閉まってます9:30に徳山港から船に乗ると10:00前に馬島港へ着きます訓練基地跡を見た後にここへ距離はそこまで長くないので全て歩いて回れます体力に自信があれば記念館を11:00前に出れば11:07発の船に間に合いますこれを乗り過ごすと次は2時間後です。
回天記念館は僕の世代ではあまり知られてはいませんが、この場所に来ると居た堪れない感情が込み上げて来るので1人で行くのがオススメです。
名前 |
回天記念館 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0834-85-2310 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.5 |
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以前から一度来てみたかった記念館です。呉市の大和記念館を見て、詳しい内容が知りたいと思った時に、このような場所がある事を知りました。飛行機では特攻隊ですが、魚雷を改造して兵器にするという考え方は、当時の日本国に対する愛国主義が為せるものだったと思います。おおよそ二十代の若者がこれに乗って体当たりし、敵に攻撃する。当時も軍部は反対したとの事ですが、末期には、秘密裏に承認されたとの事。若くして亡くなった方がいればこそ、今があるんだと考えさせられ、冥福を祈るしかありません。そんな場所です。一度、実際に何が当時あったのか、見に来て下さい。