西側の新たな魅力を体感!
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戦国時代龍造寺に与しない大友側山下城主蒲池鎮運(しげはる)の出城11箇所の一つが知徳城です。天正13年(1585)龍造寺政家の家士横岳頼次軍から攻め込まれ、知徳城は強固でないために、城主一條氏は城を出て知徳村大野が原で迎え撃ちます。結果、多勢の横岳氏には勝てず、悉く討ち死にしたそうです。横岳氏はその後古賀館の稲員氏を攻めますが、敗退しています。
名前 |
筑後知徳城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
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現在西側がかなり削られている、とのこと。知徳城を落とした、肥前龍造寺氏武将、横岳頼次は、矢加部氏の川瀬館、萩尾氏の長延館、稲員(稲数)氏の古賀館を攻めるが、稲員式部丞安守が古賀館を死守。稲員一族の抵抗と古賀館の堅固を前に、横岳軍は本来の目的であった、山下城(八女市立花町)攻めを断念した。