臥牛山で山城遺構を堪能。
天神の丸跡の特徴
備中松山城は鬼哭の城で描かれた歴史に根づく場所です。
天神の丸跡には明治時代までの天神社の基礎部分があります。
他の峰に比べて静かな散策が楽しめる穴場の山城です。
滝口康彦の備中兵乱の純歴史小説「鬼哭の城」によると、備中兵乱では備中松山城は全山城塞化されたものの、城主の叔父の裏切りにより寝返りが続発して、毛利・宇喜多勢の攻撃に三村勢は壊滅してしまう。備中松山城については、以下の描写がある。「備中松山城は、東は尾根続きで吉備高原につながり、西もまた甲部川を渡れば、吉備高原が備後まで伸びている。松山城は、最高峰の大松山が約四八〇メートル、小松山、天神丸はやや低い。石垣はないが、三面の断崖絶壁が寄手を阻む天険をなしていた。」と。甲部川とは、現高梁川のことで、現最高峰は天神丸487m。地図の等高線を追うとまさに記述のとおりだ。城からは直下に高梁川の深い碧の川面が見えた。天神丸には、近世に神社が建てられ、その礎石が確認できる。頂上部が牛の背の山塊の最高地となるらしい。寄進された手水鉢があり、城下から詣でられたのであろうか。城内を通れたものなのかよくわからない。最もいつもは城ではなく、麓の館、御根小屋で執務・生活をしていたらしいので、江戸期から観光名所だったら面白いのだが。
前山、小松山、天神山、大松山の4つの峰からなる臥牛山にある備中松山城天神の丸跡です名前の通り明治時代頃まで天神社が鎮座されていたらしく基礎部分が残っています天守閣がある小松山に比べてほとんど人が来ませんのでじっくりと山城遺構の散策が出来ますよ。
松山城をみたあと時間に余裕がないならとばしてもよいかも。
名前 |
天神の丸跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0866-21-0217 |
住所 |
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評価 |
4.0 |
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備中松山城の北側に属する臥牛山周辺でも487mと最高峰に当たる。麓から歩くと結構なアップダウンを繰り返して来ないと行けない。山城も綺麗であるが何も便利なものがない当時の人らは大変であっただろう。