幕末の神童、柳河春三の地。
柳河春三出生地の特徴
幕末の洋学者柳河春三の生誕地で、歴史を感じられます。
天保三年に生まれた名人の足跡を辿る貴重な場所です。
京町通に位置し、尾張藩重臣の屋敷跡が点在しています。
幕末の神童神童という言葉があるが、これは頭のいい子でもなければ早熟な子供を指しているのではない。これはあきらかに常識の範疇を超えてしまった子供のことをさしているに違いない。西洋にも神童はおり、子供の頃は周りの大人に理解されずに、変わった子だとか知恵遅れなどと評価されて粗末に扱われていたが、その子を理解できる大人が現れると途端に評価が高まり、大科学者となった隠れた神童もいた。さて、日本にも早くから神童として評判の子がいた。それは柳河春三(りゅうがしゅんさん)で名古屋生まれの人である。生後二十数か月で筆をとりイロハを書いたという神童で、かぞえ年三歳の時に尾州侯(尾張の殿様)が城中に招いて、書を書くことを命ぜられたので、勇躍しつつ、颯爽たる文字を書いてご覧にいれた。(パソコン画)近臣等は舌をまき、我も我もと紙を突き付けて春三に揮毫をせまったが、最後に尾州侯が今一枚所望されると、「もういやになった」と大書した。近臣どもは子供とはいえあまりにも無礼なことにハラハラしたが、尾州侯は大笑いして「後生恐るべし」と言った。春三はその後、漢籍、国語、蘭語、英語、仏語を学んで、尾州藩の為に100以上の原書を翻訳した。春三の鬼才ぶりは、四歳のときに尾張の国笠寺の額を揮毫し、十二歳で洋砲の必要性をといた砲術便覧を著わした。春三には幾多の著作があるが、あらかじめ草稿をつくらず、直接版木に文章を書きつけ、彫刻師がそばから彫っていったそうだ。明治政府になり立身の前途を前にして春三は明治3年3月12日、病に倒れた。(パソコン画)
京町通周辺には尾張藩の重臣の屋敷が複数建ち並んでいたようです。
| 名前 |
柳河春三出生地 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.3 |
| 住所 |
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幕末の洋学者柳河春三が、天保三年(1832年)に生まれた場所です。ビルの前に案内板がありました。