葛西ヶ谷の歴史感じる場所。
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東勝寺橋を渡った谷は、頼朝の御家人葛西清重の屋敷があったことから「葛西ヶ谷(かさいがやつ)」と呼ばれます。新田義貞に攻められた東勝寺合戦では北条高時以下七百名が自害し、鎌倉幕府の滅亡となります。まっすぐ進むと祇園山ハイキングコース、二つ目を右に折れるとトンネルを経て名越に抜けることができます。
名前 |
葛西ヶ谷 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
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鎌倉幕府終焉の地であり、谷戸の奥には東勝寺跡や北条高時腹切りやぐらがある。地名は源頼朝の重臣・葛西清重の屋敷があったことに因む。葛西氏は畠山、川越、江戸氏などと同じ秩父氏一族で、奥州藤原氏攻略の功によって清重が奥州総奉行に任じられた。「吾妻鏡」には「なかんずく清重は、源家において貞節を抽んづる者なり」とあり、頼朝の信頼が厚かったことがわかる。以後、子孫は戦国時代まで石巻を拠点に大名として続いたが、豊臣秀吉の奥州仕置によって没落し、江戸時代には伊達氏や南部氏の家臣としてかろうじて命脈を保った。滑川にかかる東勝寺橋のたもとには「青砥藤綱旧跡」の碑もある。藤綱の話は創作された教訓話に過ぎないが、葛西氏の家臣に青戸氏(葛飾区の豪族)の存在も確認されているので、あながち根拠のない話ともいえない。