鎌倉時代の神社、陶山義高を祀る。
陶山神社の特徴
陶山神社は鎌倉時代末期に創建された歴史深い神社です。
祀られている陶山義高とその家臣平蔵についての由来が魅力的です。
境内から西側の美しい景色が一望できる風光明媚な場所です。
元々の御祭神は春日大社から勧請した布都主命と武甕槌命だから、陶山氏を合祀するまでは春日神社だったかも。陶山義高は鎌倉幕府→朝廷(南朝)→室町幕府(北朝)へ奉公先を変えては敵対勢力に敗れている。武神の御利益は…
私が、陶山です。子孫ですね‼️
鎌倉時代末期の創建と伝わる神社で武将陶山義高と家臣の平蔵が祀られているとの事です本殿は瓦葺流造で境内からは西側の景色が一望出来ます鳥居横にある石仏は説明板にある乞食を祀ったものかもしれません。
名前 |
陶山神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.9 |
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太平記での活躍が知られる陶山義高とこの地で足利直冬の軍に敗れた息子達を祀る神社です。有田の陶山神社とは全く関係ないと思います。陶山氏の歴史は平安時代に遡り、平家と同じ桓武平氏の一族です。平家の発展に軍事面で貢献した一族です。そのため、平家から要衝の笠岡に領地を拝領しています。源平合戦でも忠義を尽くした後で「壇ノ浦合戦」後に備中陶山家は一度滅びますが、平家が破れた後に分家である一族が頼朝の家臣である佐奈田氏などに仕えてたので、その縁で子孫が平氏である執権北条氏に再仕官でき、元寇での活躍が認められ、陶山氏は再び笠岡を拝領したと伝わっています。その執権北条氏への恩義により劣勢の鎌倉幕府を支え、太平記でも紹介されてますが鎌倉幕府側の武将として活躍をしています。あまり知られませんが「笠置山の戦い」での崖登りでの奇襲、「六波羅での戦い」では劣勢の中、押し寄せる南朝側の大軍を二度も跳ね返し、三度目の迎撃で援軍であった足利尊氏らが南朝に寝返り、六波羅の死守を断念して北朝の天皇や北条仲時らを逃す為に奮戦しますが番場の蓮華寺で力尽き、天皇や家臣らを逃し、北条仲時らと共に自害した悲劇の名将です。当時の人々が陶山義高とその息子らを弔う目的で祀ったのが陶山神社と思われます。タケイカヅチノミコトは武神であり、陶山家が代々、崇拝してます。笠岡市には陶山氏が建てた寺がまだ残っていますが、多くが北朝に仕えてた太平記の記述から明治時代に賊将と扱われて陶山氏の文書の多くが燃やされ、奉納した仏像なども破壊されたと聞いています。室町時代は一時、幕府の奉行衆となっていますが戦国時代の前半まで笠岡を領地としていましたが村上氏に破れ、失領しました。その後、落ち延びた一族は毛利氏や黒田氏、遠山氏などに家臣として仕えています。陶山義高とその一族の歴史について「反太平記」という本に一説で紹介されてあります。ご興味あればご一読ください。