甲斐善光寺で金堂裏の石灯籠を見に行こう!
甲斐善光寺にお参りに行った際、金堂裏手に石灯籠が3基ずつ並ぶ立派な墓所が目に止まりました。案内板によると豊臣秀吉の家臣、加藤光泰とありました。加藤遠江守光泰は、天正19年(1591年)から文禄2年(1593年)まで甲斐国の領主であった。文禄2年に豊臣秀吉の命によって朝鮮へと出兵するが、同年8月29日に病死する。甲斐国在中の2年間に甲斐城の築城工事を受け継いだが、完成を見る事なく死亡した。この五輪塔は江戸時代中頃の元文4年(1739年)に彼の子孫によって建てられたもので、光泰の死後146年経ってから建てられた、祖先崇拝の供養塔である。以上案内板より。光泰は美濃出身の戦国武将で斎藤龍興に仕え、滅亡後は豊臣秀吉に召し抱えられ、賤ヶ岳の戦いや小牧長久手の戦い等、重要な戦いで数々の軍功を上げ、最終的に甲斐24万石の大名になった人です。豊臣秀吉の家臣で加藤と言うと加藤清正や加藤嘉明の二人が頭に浮かび、この武将は知りませんでした。加藤清正の方は改易になってしまいましたが、嫡男貞泰は光泰亡き後、大洲城主となり、家系は明治時代まで存続して華族にまでなったそうです。
名前 |
加藤光泰の墓 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
4.0 |
周辺のオススメ

加藤光泰の墓。没後146年後に当時四国大洲に移封されていた加藤家の子孫によって建てられたとは、驚き!