藤沢橋近くでカワセミに出会う。
堰跡(えんせき)橋の特徴
朝に訪れるとカワセミが姿を見せる、自然の宝庫です。
大正十三年に完成した歴史深い堰跡が魅力です。
遊行寺の坂を下った先に位置する、静かな散策スポットです。
大正十三年(1924年)に奥打堰という堰(川をせきとめるやつ)ができたけど、だんだん都会になってきて、1983年に奥田堰が\b取り壊されて、この橋ができたそうです。だから「堰跡橋」っていうんですね。
遊行寺の坂を下り、藤沢橋の手前の細い路地を左折すると以前訪れた船玉神社があります。そこからさらに境川沿いに藤沢市役所方向へ進むと堰跡橋(えんせきばし)」があり、たもとに大きな石碑が建っていました。元々この道は、長谷の大仏へつながる鎌倉道だったそうですが、いま見ると道幅も狭く、人通りも少ないので、こんなところに大きな石碑があり驚きました。石碑に書かれた沿革によれば、かつてこの地では鎌倉幕府により宋に渡るための船が建造され、また「大鋸堰」という堰を築き、境川から水を引き水田が開かれていたそうです。大正時代には奥田堰という木造の堰が築かれ、昭和に入り敗戦後、愛知用水を見本としてコンクリート、鉄製の永久堰となり各耕地に農業用水として利用されたそうです。ただ、昭和三十五年頃には各耕地の区画整理/宅地化が進み、用水としての使命を終え、昭和五十八年には堰は取り壊され、その位置に「堰跡橋」が架けられたそうです。いまではビルが建ち並ぶ市街地になっていますが、以前は一面の水田がここに広がっていたとは想像できないですね。沿革(石碑の文面)昔 鎌倉幕府が宋の国に渡る為 当船久保の地にて船を建造した 約七百二十年前である。その航海の安全を祈願したのが船玉神社(弟橘姫命)である。いつの日かより自然の流れを利用して水田を開き堰を築き大鋸堰と稱した。明治に至り藩制が廃止され明治六年五月大小区制が施行されて第十六区一番組(大鋸西富柄沢)となる、同十三年大小区制廃止、鎌倉郡大富町字船久保となった。同四十年五月二十九日、大富町(大鋸西富)大坂町(大久保坂戸、善行、立石)と合併し、藤沢町となる 同四十一年四月一日明治村鵠沼村が合併され同十月一日町制が施行される。現在の市制記念日は町制施行が基となっている。同四十二年十一月合併を期に藤沢町外、二箇村(六会村大正村)連合耕地整理組合が発足し、水田、河川の整理が進み、大正十三年木造堰が完成されて奥田堰と名命され左岸に大鋸河原(大鋸一、二町)鶴巻(弥勒寺)川名(川名一丁目)右岸には大道東(寿町、朝日町)東横須賀奥田(朝日町藤沢鵠沼東)の各耕地に農業用水として利用された。境川沿岸の住民には色々の恵みを与え、時には禍を持たらし日々生活を共にして来た。昭和二十年、敗戦により食糧が不足し同二十九年食糧増産の為、県母体により河川改修が行われ愛知用水を見本としてコンクリート、鉄製の永久堰に生れ改るも時代の変化に依り各耕地の区画整理が進み宅地化され同三十五年頃には用水としての使命を終えた。耕地は現在の市街地となった。今般県市の深い理解により奥田堰は堰跡橋に変る。合資会社、谷津組、坪井工業株式会社の施工により附近住民の日々の生活の為、堰より橋へ、永い間親しんだ境川奥田堰を偲び橋の完成を記念し赤門住職吉川晴彦の句に藤沢市長葉山峻の書により、ここに碑を建立するもの也昭和五十八年五月十四日大安吉日 青木謙夫之記。
名前 |
堰跡(えんせき)橋 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
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なんの変哲もない橋ですが朝に近くをとおると、カワセミさんがいます木や岸壁にとまっています。