一宮町の歴史を感じる丸いお墓。
加納久宜公墓所の特徴
一宮藩最後の藩主・加納久宜子爵の墓です。
明治から大正にかけて活躍した歴史的な人物。
見晴らしの良い場所に位置しています。
2021年9月27日(月)に一宮町の街歩きで見かけた。上総一ノ宮駅から房州横断道路への道で、正面の丘に見える。今回は足を運ぶ余裕がなかった。「一宮町」のホームページには以下のように紹介されている。●加納久宜公の墓(かのうひさよしこうのはか)【一宮町指定史跡】加納久宜は明治2(1869)年に一宮藩知事となり、鹿児島県知事などを務めた後、大正元(1911)年に一宮町長に就任しました。水田の耕地整理や海水浴場の整備、婦人会・青年会・私立一宮女学校を作るなど、町内に大きな功績を残して大正8(1919)年に亡くなりました。その後町民たちの声によって大正11(1922)年、整理した田の見える城山に墓が建てられました。
とても見晴らしがいい。
一宮藩藩主。
上総一宮藩の最後の藩主にして、鹿児島縣知事、一宮町長を務めた加納久宜子爵の墓。太平洋を望む山の上にあり、真正面には一宮町役場が見える場所に鎮座しています。「一にも公益事業、二にも公益事業、ただ公益事業に尽くせ」と遺言を残し、没後もなお自らが治めた地を見守るように、静かに公が眠る墓所です。
加納久宜は明治2(1869)年に一宮藩知事となり、鹿児島県知事などを務めた後、大正元(1911)年に一宮町長に就任しました。水田の耕地整理や海水浴場の整備、婦人会・青年会・私立一宮女学校を作るなど、町内に大きな功績を残して大正8(1919)年に亡くなりました。その後町民たちの声によって大正11(1922)年、整理した田の見える城山に墓が建てられました。『加納久宜公の墓』は一宮町史跡に指定されています。
TVメディアに恐らく初登場の、一宮藩最後の藩主。2019年の大河は、今までの路線とは異なった近代史(明治時代中期以降)を背景としたドラマだが、これに、一宮藩の殿様が登場した。そこには、加納久宜公と嘉納治五郎が、オリンピック参加について議論しているシーンが登場する。「同じ『かのう』だが…」云々といった会話は有ったか否かは定かではないが、そのスーツネクタイ姿の初老の紳士は、実は若い頃髷に裃姿で江戸城に登城する大名だった事は、知る人ぞ知るだろう。その様子を想像しながらドラマを見てニンマリするのは私だけだろうか。そして、久宜公が日本体育会会長だったという知識を得た事も、思いがけない収穫であった。
名前 |
加納久宜公墓所 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
4.0 |
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一宮町の昔の有名な町長の丸いお墓。一宮町出身の公爵で、信用金庫、乗馬クラブ、農法、女子教育など、先駆的な事を数多く行い、鹿児島知事歴任の後、一宮町町長になりました。研究会があります。場所は一宮町を見渡せ海まで遠くに見える見晴らしのいい丘の上にあります。