横浜中華街の新聞誕生地。
日本国新聞発祥之地の特徴
日本初の邦字新聞『海外新聞』発刊の歴史的な地です。
ジョセフ・ヒコにゆかりのある横浜の史跡です。
横浜居留地商館跡の近くに位置しています。
歴史!横浜中華街の一画、横浜中華学院脇を通る関帝廟通り沿いに立つのが「日本における新聞誕生の地」碑。この場所で元治元年(1864年)6月28日、ジョセフ・ヒコ(ジョセフ彦=浜田彦蔵)が、外国新聞を翻訳編集し、日本初の邦字新聞『海外新聞』を発刊しています。
横浜中華街の中にある石碑ですメイン通りより少し離れており人通りは少ない方です最近はネットニュースが多く、ペーパー新聞は少なくなって来ましたが日本の大衆購読資料の発信記念碑です。
平成6年にできた記念碑どす。
横浜居留地商館跡・横濱バザールの斜向かいにある。開港当時はこの近辺は中・米・英・仏・独・伊・印等の国々が治外法権の下商業活動を営んでいたそうなので『海外新聞』の需要はあったのだろうと推測する。ジョセフ彦こと浜田彦蔵は、日本人で 唯一リンカーン大統領と握手した事がある人物。木戸孝允・伊藤博文・坂本龍馬など、多くの人に民主政治を説いた先駆者でもある。
♪︎波瀾万丈 ……生粋の日本人=濱田彦蔵出生地 …兵庫県播磨町 1837年生まれ😭乗船した船 (栄力丸) が紀伊半島 大王岬沖で嵐のため難破、52日間 太平洋を漂流😁🌀南鳥島付近で、オークランド号に発見され救助、サンフランシスコに滞在 。ボルチモアで洗礼をうける(洗礼名u003dジョセフ・ヒコ)。滞在中に様々な教育、近代文化に触れる♪︎日米修好通商条約、鎖国解除キリシタンの洗礼を承けているので、帰国出来ず。帰化してアメリカ国民となり、ジョセフ ヒコと名乗る♪︎駐日公使 ハリスに神奈川領事館通訳として採用され9年振りに日本へ帰国♪︎海外新聞を発刊民主主義に魅了されていたので、英字新聞を翻訳して此の地で発刊。☆引用 「新聞の父 ジョセフ・ヒコ 播磨町」♪︎横浜の地、道行く人は多けれど足を止める人はいない 2021/10/24
この場所で1864年6月28日、ジョセフ・ヒコ(ジョセフ彦=浜田彦蔵)が、外国新聞を翻訳編集し、日本初の邦字新聞『海外新聞』を発刊した。
ジョセフ彦は、1837年(天保8年)兵庫県播磨町に彦太郎として生まれた。1850年(嘉永3年)、江戸から船で故郷に帰る途中暴風雨に遭遇し、50日余り太平洋を漂流した後、アメリカの商船に救われ、アメリカに渡った。税関長サンダースに可愛がられた彦は、アメリカで教育を受けカトリックの洗礼を受けた。この時「ジョセフ」のクリスチャンネームを受け、ジョセフ彦と名乗るようになり、アメリカの国籍を得た。1859(安政6)年アメリカ領事館の通訳として、ハリスとともに開国直後の日本に着任した。一旦アメリカに帰国後、1864(元治元)年再来日し、わが国最初の新聞を発刊した。「海外新聞」は月刊で、半紙4~5枚を仮綴したもので、最初は手書き後に活版印刷を用い、2年間で26号まで発行したといわれる。その後、1897(明治30)年に60歳で没するまで、新生日本の発展に尽くした。現在も東京・青山に浄世夫彦の墓が残されている。
横浜中華街の関帝廟通り沿いにひっそりと佇んでいます。近くには関帝廟があります。ここは日本の新聞の誕生の地らしく、石碑に書いてあることを読むと「ここ、横浜の元居留地一四一番は、一八六四( 元治元 ) 年六月二十八日、 ジョセフ 彦が、「 海外新聞 」 を発刊した居館の跡である。彦は、 リンカーン大統領と握手した 唯一の日本人であった。 リンカーンの民主政治が 勃興期の米国の新聞の力に負うところ大なるを体得し、開国したばかりの祖国のため、日本最初の新聞を創刊し、「 童子にも読める 」 新聞精神を提唱した。読みやすく、判りやすい新聞を、創世記の日本の新聞界に植えつけた 新聞の父 彦 の功は大きい。さらに木戸孝允、伊藤博文、坂本龍馬など多くの人々に民主政治を伝えた彦は、民主主義の先駆者として、およそ新聞を読むほどの人々の心の奥に残る 文化の恩人であった。」とあります。リンカーン大統領と握手した唯一の日本人がジョセフ 彦氏だった事も学べましたが、この様に「日本初」というものが横浜には多くあるので、探索しながらの撮影が楽しめます。
名前 |
日本国新聞発祥之地 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
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日本における新聞誕生の地らしい。瓦版もあったから新聞誕生と言われると微妙な気もするが…