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加賀市永井町にある橘宿跡(たちばなしゅくあと)は、旧北国街道(ほっこくかいどう・旧北陸道)の宿場町の跡地だ。あまり有名とは言えない史跡だが、実は歴史を紐解くとなかなか興味深い場所だ。江戸時代に整備された北国街道は、江戸と金沢を結ぶ重要な幹線路であり、加賀藩の参勤交代ルートにも使われていた。橘宿は、越前(福井県)と加賀の国境にほど近い位置にあり、加賀藩の西端を守る要衝だった。橘村には「上橘」「下橘」の二つの集落があり、宿場町として発展したのは上橘のほうだった。茶屋が軒を連ね、「茶屋橘」とも呼ばれ、宿場には参勤交代の大名が泊まる本陣、脇本陣のほか、旅籠や問屋場、御使者改番所(公用の通行許可所)も設置され、街道を行き交う人々でかなり賑わっていたようだ。実はこの橘という地名は江戸時代より遥か昔の律令時代にまで遡り、奈良・平安期にはこの辺りに朝倉駅(あさくらのうまや)という官設の駅家(えきか)が置かれていたという説もある。延喜式(えんぎしき)という古代法典にも記されており、当時から既に交通の要所としての重要性を帯びていたわけだ。また中世室町期になると、京都・栂尾(とがのお)の高山寺(こうざんじ)がこの地域を支配し、「橘の庄」という荘園として栄えた。こうした由緒が後の北国街道の宿場整備につながったのは間違いないだろう。さらに文明年間(15世紀後半)には、越前の戦国大名・朝倉氏が加賀へ進攻した際、この橘付近でも戦闘が行われた記録が残されている。穏やかな現在の風景とは裏腹に、戦乱の舞台ともなった場所なのだ。宿場としての橘の歴史は、江戸期に多くの旅人や文化人がここを通過したことでより鮮明になる。鎌倉時代の親鸞(しんらん)聖人、室町時代の蓮如(れんにょ)上人も北陸道を通った際、橘付近を通ったと伝えられている。室町時代の高僧・道興准后(どうこうじゅごう)は、この橘に宿泊した際に詩歌を残しており、当時の旅情を伝える貴重な史料にもなっている。延徳年間には、朝廷から九州へ下向した貴族・冷泉為広(れいぜいためひろ)が橘に宿泊した記録も残るなど、古くから宿場として確かな地位を占めていたことが窺える。近世になると、加賀藩主の参勤交代でも必ずといってよいほど橘宿が利用され、松明供養といった儀礼も行われていたとされる。加えて、この橘宿は当時「粽(ちまき)」を名物としており、多くの旅人が道中の楽しみとして買い求めたという記録も残されている。橘宿周辺には、旧街道にまつわる史跡が今もいくつか残っている。橘の鎮守、多知波那神社(たちばなじんじゃ)はかつて上橘・下橘の二社だったが、明治期に統合されたものだ。神社の由緒には、橘宿の成立と発展を伺わせる記述も見られ、地域の歴史を静かに今に伝えている。また街道を北に進めば橋立宿、南東に進めば動橋宿や大聖寺宿があり、これらも江戸時代の面影を強く残している地域だ。橘宿跡の訪問と併せて巡ると、当時の街道の姿がより明確に浮かび上がる。現在の橘宿跡は、往時の繁栄ぶりを示す華やかな遺構こそ少ないが、現地には立派な由来碑が建てられ、街道の歴史を簡潔に示している。こうした宿場町跡はともすると見過ごされがちだが、よく観察すると街道の地割りや石碑、案内板が整備されており、当時の様子を伝える痕跡が多く存在する。橘宿跡は、その歴史的価値と面白さに気付けば、じっくり楽しめる場所だ。宿場の歴史というと、とかく華々しい物語ばかりが注目されるが、こうした小さな宿場町の跡こそが、旅や物流、そして庶民の暮らしが交錯したリアルな歴史の証人といえるだろう。街道歩きや歴史散策が好きな人には、橘宿跡の存在をぜひ心に留めてほしい場所だ。