中世のロマン漂う政元城跡へ!
政元城跡の特徴
政元城跡は江馬氏ゆかりの中世山城の跡です。
江馬城砦群として国史跡に指定されています。
岐阜県飛騨市神岡町西に位置しています。
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江馬城砦群で国史跡。高さ約30m。お寺の裏に登城口があった。キレイに手入れされててルンルン気分で散歩できる♪カモ帯曲輪のある主郭は虎口が凹んで堀切には木橋が架かってる。さらに上には奥の城があるらしいよん。
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| 名前 |
政元城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
|
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政元城跡(まさもとじょうあと)は、岐阜県飛騨市神岡町西にある江馬氏(えまし)ゆかりの中世山城の跡だ。別名を山田城(やまだじょう)ともいい、飛騨を代表する国指定史跡「江馬氏城館跡」の一部として保存されている。この城を築いたのは、北飛騨を支配した江馬氏一族だ。江馬氏といえば、平安末期から戦国末期まで北飛騨を治めていた有力な武士団で、神岡周辺を拠点に多くの城を構えた。政元城もそんな江馬氏が築いた山城群の一つで、高原諏訪城(たかはらすわじょう)を中心に寺林城(てらばやしじょう)や土城(どじょう)など、多くの城と連携して防衛網を形成していた。この城が重要だったのは、当時の主要街道である越中東街道の要衝に位置していたからだ。神岡を通る東街道と数河街道が分岐する場所にあり、交通の監視や周囲の防衛、通信拠点として活躍した。城内には狼煙台も置かれ、周囲の城と連絡を取り合う仕組みも整っていたという。築城時期については詳細な記録がなく不明だが、戦国時代の江馬氏家臣である吉村斉右衛門政元(よしむらさいえもんまさもと)によって築かれ、その名が城の由来になったと伝えられる。地域に伝わる話として、平安末期の平治の乱で敗れた源義平(みなもとのよしひら)の家臣がこの地に逃れ築城したという逸話も地域に伝わる物語の一つとして楽しまれている。戦国末期の天正10年(1582年)、江馬氏が織田信長の家臣である三木自綱(みきつねつな)に敗れた際に、政元城も他の城と共に落城し、その後は再建されず廃城となった。江戸時代に入ると城は自然に還り、長く忘れられていたが、昭和55年(1980年)に江馬氏城館跡の一つとして国の史跡に指定されてからは、保存と整備が進められ、現在に至っている。実際の城跡を訪れると、主郭と呼ばれるメインの曲輪(くるわ)が今もはっきりと分かる。城跡は東西約20m、南北約10mほどの比較的小規模な主郭を中心に、周囲には何段もの腰曲輪が配置され、土塁や堀切の跡も明瞭だ。これらを見ると、防衛を意識したしっかりとした縄張りだったことがよく分かる。また、城の北西側には政元奥城(おくじょう)と呼ばれる詰め城もあり、戦いの際の最終防衛拠点だったと考えられている。城跡のふもとには大国寺があり、昔から地域住民の信仰拠点となっている。今でも寺の近くから山道が整備され、気軽に城跡まで登ることができる。政元城は歴史的に特別華やかなエピソードがある城ではないが、飛騨を支えた江馬氏の防衛ネットワークの一部として重要な役割を果たしたことは間違いない。飛騨の山城らしい堅実な構造と、周辺の静かな自然環境が相まって、訪れた人に中世の息吹を感じさせてくれる場所だと思う。ぜひ一度足を運び、かつてこの地を守った武士たちの足跡を感じてほしい場所だ。