高崎市指定史跡、長野一族の墓石。
長野氏累代の墓の特徴
高崎市指定の史跡で、長野氏の墓石が残る地です。
中世の長野一族の歴史を感じられる貴重な場所です。
来迎寺の裏手に位置しており、訪問しやすい立地です。
中世にこの地を支配した長野一族の墓石。案内板によると、これらの五輪塔は大正時代に掘り起こされたものであるとの事。
来迎寺の裏手にあります。
長野郷(現在の高崎市箕郷町)に住し、名字として名乗った長野氏は、在原業平を祖先としていたので、代々業の字を名前に用いていたといいます。業平は、上野国の太守であった阿保親王の子であり、関東へ下向したとの言い伝えがあるそうです。箕輪城の城主であった業正の時代、長野氏は興隆期を迎え、西上州の諸将を「箕輪衆」として糾合し、その盟主となりました。また天下に知られた剣豪である上泉伊勢守を客将として迎え、上信国境を越えて侵攻する武田の大軍を、幾度にもわたって撃退しました。戦上手の武田信玄をして「業正あるうちは上州は奪れぬか」と嘆かせたといいます。しかし、その業正が没すると、信玄は直ちに上州へ侵攻し、子の氏業では支えきれず、箕輪城は落城、氏業は自害して長野氏は滅亡したと言われています。しかし、この墓地の入り口に「長野氏宗家長野正弘」と記した、真新しい標注が建っているところを見ると、その名跡は連綿と受け継がれているようです(^_^ゞ
名前 |
長野氏累代の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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HP | |
評価 |
3.7 |
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高崎市指定史跡。案内文を抜粋すると、この墓石群の中には、長野氏滅亡後、周囲の堀の中に崩れ落ち埋没していたものもあったが、大正十二年の墓地整備の際、子孫の人達が発掘し、現在の場所に整理し安置したものである。宝篋印塔の基礎の上に五輪塔の地輪が積まれている等組み方の不完全のものがあるのは、この為である。五輪塔、宝篋印塔、併せて三十数基が並べられているが、その中には年号を読み取る事が出来るもの十数基ある。長野氏は長野の郷から発祥したと言われ、箕輪城を本拠地とした勢力で、関東管領上杉家に属していた。特に長野業政は上杉憲政が北条氏に追われ越後に退いた後も、在地勢力を統率して、北条氏や武田氏の侵攻を防いだ。しかし、彼の死後、武田信玄の侵攻により、箕輪城は落城した。長野地区には、数多くの館跡、砦跡があり、長野氏を中心に在地勢力が結集し、そのイニシアティブは卓越していたことは想像できる。