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| 名前 |
土城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
|
土城跡(どじょうあと)は、岐阜県飛騨市神岡町牧に残る江馬氏(えまし)の山城跡だ。地元では「鬼ヶ城(おにがじょう)」という別名もあり、その名のとおり険しい地形に築かれた要害の城だ。昭和55年(1980年)には国の史跡として「江馬氏城館跡」の一部に指定されている。江馬氏は室町から戦国期にかけて飛騨国北部を治めた豪族で、高原郷(現在の飛騨市神岡町周辺)を本拠地とし、中心地である下館(しもやかた)の背後に高原諏訪城を築いていた。土城はその北側に位置し、高原郷防衛のため、東西南北に配置された城砦群のひとつだ。城跡があるのは牛首城山という標高352メートルほどの山頂で、高原川と跡津川の合流地点に突き出た岩山の上だ。南東、南西、北側が河川に囲まれ、天然の要塞として非常に防御に優れた地形を持っている。頂上には南北に二段の平坦地(曲輪)があり、櫓などが建てられていたと推測されている。土城の役割は、飛騨西部と越中(現在の富山県)を結ぶ街道を監視することだった。特に城山のふもとには越中と信州松本を結ぶ鎌倉街道が通っており、ここは交通の要衝だった。また城主として、江馬氏の重臣・川上氏の家臣だった一ノ瀬清四郎という名も地元に伝わっている。戦国時代、江馬氏は甲斐の武田氏や越後の上杉氏などの影響を強く受けた。最終的に天正10年(1582年)の内乱で江馬輝盛が敗れて一族は滅亡し、それに伴って土城も廃城になったと思われる。江戸時代にはすでに城跡は荒廃しており、「牛ヶ首の崩れ」という難所として知られるようになった。近代に入って国道41号線が建設される際に城山の斜面が大きく削られ、現在ではアクセスが非常に難しい。現在も残る二段の曲輪跡や険しい地形は、当時の城の構造や防衛上の重要性をよく示している。山道などの整備はされておらず、訪問には注意が必要だが、戦国時代の飛騨地方の歴史や江馬氏の興亡を感じさせる貴重な遺跡だと思う。